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- 2025/03/16 [PR]
- 2017/04/25 『図書館の魔女』
- 2017/04/09 『子供たちは狼のように吠える』
- 2017/04/03 『バチカン奇跡調査官』
- 2017/03/29 『明日という過去に』
- 2017/03/26 『うちの執事に願ったならば』
『図書館の魔女』
おもしろかったし、とても興味深くもあったのだけれども、そう言い切るには長すぎた!
あと、主にこの世界何なのってところにとてももやもやしました。……それについては後述。
こういう物語は確かにほかに類を見ないですね。
ファンタジーと謳っているけれども、剣や魔法や冒険が殊更に強調されるわけではなく。
推論や謎解きめいたことは行われるけれども、それは主眼ではなく。
言語学、地政学、文献学、それからもちろん図書館学に関する確かな知識に基づいて書かれている。ボーイミーツガールであり、権謀術数と陰謀の物語でもあり。
まずは好きなところから。
特に好きなシーンが三つあります。
あ、順番はページ順で特に意味はないです。
一つ目は、第二部で「こんなに嵐がひどくなると知りたらましかば……」という一言の会話から、マツリカが推測をめぐらし、陰謀を暴き出すところ。
9マイルっぽいですし、ここが一番ミステリー的でおもしろかったです。
マツリカのような、ばらばらの知識を繋ぎ合わせてひとつの絵を描くタイプの謎解き(といってもいいのだろうか)はあまり読んだことない気がします。
私は大学で日本史やってたからその手法が歴史学っぽいと思うけど、作者は言語学者だしほかの文系学問もそうなのかもしれない。
この「知りたらましかば」というフレーズから演繹していく推測それ自体は、特に後半言語学の難しそうなことを言い出したあたりからよくわからなくなって読み飛ばし気味だったのですが……。そもそもそういう言語があるかどうか自体が物語中の拵えごとなので自作自演感もあった。
この台詞と話者の恰好や状況から結論を導き出すこと自体がわくわくしました。
二つ目に好きなシーンは、第四部の三国会談。
全体的にこれまでにやってきたことが実を結んでいる感じがして好き。
何が良いって、数字をあげて理論的に正しく説明していても、結局相手国の人々の心の扉をこじ開けたのは、キリンの人柄というか「私が説得します」の一言だったということ。
理に拠りすぎているマツリカの危うさがしばしば言及されていたので、それが後々響くのかなーと思っていたらそうでもなかったわけですが、ともかくここのキリンはマツリカとは好対照で良かったです。
結局人が動くのは感情なんだと私は思うから。
マツリカならそれすら見越して説得役をキリンにしていたのだろうけれども。
それから、突然のトラブルに工夫するマツリカとキリヒトと衛兵たちと、それすらも見破っていたコダーイの慧眼。
「水槌を動かすときは、彼も連れて行かなくてはいけないのかね?」的な台詞にはちょっと笑った。
物語の効果的にもここでコダーイも智将だと示すことで後々につながるんだな、っていうのもわかるけれども、普通に読んでてどきどきして楽しかったです。
さらに見破られてなお、交渉の道具にしてしまうマツリカのはったりも、知恵比べの趣があってよかった。
三つ目は、最後の戦いのあとで言語が通じなくても言葉が通じたところです。
ひたすら熱かった。
言葉とは何か、という話を最初からしていたのが、こういうかたちで示されるのか。
言語ではなく、声でもなく、伝えようとするところに言葉はある。
伝えたいことがあるから、言葉は伝わる。
言葉を弄して長大な物語を書いているけれども、この物語の最も核になるところのひとつがこのシーンだったのではないかと思います。
なんていうか読む前や序盤で想像していたよりもずっとキャラクターを好きになれた小説でした。
テンプレ的ではないけれども、だからこそ一人ひとりに血肉がある感じ。
といいつつ、マツリカだけは過去が見えないけれども。
主役格のマツリカとキリヒト、ハルカゼとキリンはもちろん、ほかのキャラクターも魅力的で、彼らの物語のこれからを知りたいです。
衛兵の人たちも好きで、最初は五人の違いも分からなかったけれども、それぞれの図書館との関わり方の違いから区別が明確になっていった。本が好きな人ばかりではないところもリアルな気がしてよかったです。
イズミルが裁たれていない折本を見つけたシーンは、なんとなくランガナタンの「すべての人にその人の本を」「すべての本にその読者を」という法則を思い出しました。
ところでイラムは最初気のいいそそっかしい小母さんだと思っていたので、あとでアキームが……ってなったときに戸惑いました。登場シーン読み返したら年恰好は特に書いてなかった。なんで思い込んでいたんだろう。
キリヒトの師匠の年齢が謎っぽい話は、特に回収されてないですよね?
続編で明かされるのかしら……。
一方で、あまり好きではないところ。
まず、地の文。
ものの動きや構造についての説明がかなりわかりにくかったです。これは私の理解力の問題もあるかもしれませんが。
水槌の説明も、断面図まであるのに何が何やらよく分からなかった。
アクションシーンも誰が何をしたかはよく分からないけど、キリヒトすごーい、みたいな。
地名とかも冒頭に地図があるわりには、軍略を話しているときに「半島」って言ってたけどそれはどこの半島なの?みたいなことが何度もありました……。
ものの動きとか場所とか構造とか、そういうところは読み飛ばしてしまってもそんなに問題ないかなと思っているのでいいんだけど、これだけ文章量あってこんなにわかりにくいのかとは思った。
そして、地の文の話者がいったいどういう立ち位置なのかってのもとても気になった。
これは完全に私の趣味の問題だと思うんですけど。地の文は何目線かっていうところに興味がある。そこに物語上意味があればとても良いし、ないのならどちらかというとフラットであってほしい。
『図書館の魔女』は語り口が講談っぽいかなとは思いました。一文の長さや句読点の使い方が古典っぽいのと、時折机を叩いて煽る感じ。
ただ、煽りすぎというか……たとえば人形芝居を観たシーンで「キリヒトが見ていれば」みたいな文がやたら多かったのとかが正直うざかったです。それは分かってるから、早く物語を先に進めて!って思った。
語り手が結構でばっているわりには、その視点がどこにあるのか何者かが特に明かされず、というか作者の埒外なのかもしれないけど、私の趣味からは微妙でした。
あとこの作品で一番気持ち悪かったのが、世界観の中途半端さ。
最初、異世界ファンタジーだと思って読み始めたんですよ。でも、第3部の文献学講義を読んで、はぁ!?ってなった。
言語名(ラテイナとかグラエカとか)はまだ現実のものをモデルにして書いて、その言葉によって翻訳しているものと納得できるんですけど。
どうして、プトレマイオスとかアナトリアとかそういう固有名詞が出てくるの。その後も文殊菩薩とかミノタウロスが出てくるし。
そういう固有名詞は、この現実世界にある固有の人やものと結びついていると思うので、それが異世界で出てくるのには違和感がある。……ファンタジー警察的なものに誤解されても嫌だから釈明すると、異世界人がパン食べようがじゃがいも食べようが、似たものを読者の分かりよく「パン」とか「じゃがいも」に訳しているんだと考えるので普通名詞ならよほどでなければ気にしないんだけど。むしろたとえば「ターキッシュディライト」より「プリン」の方が魅力が読者に伝わるのならその方がいいじゃんって思っている。でもメロスが「名無三」って言うのは世界観を壊す気がして嫌だ、みたいな感じです。
閑話休題。
でも「図書館の魔女」の物語は、それらの固有名詞があるからといって現実世界の過去に(あるいは遠い未来に)どこかで起きていたこと、と思うにしては世界観が固有すぎてどうにも納得できない。だってこの世界に「高い塔」なんてないじゃん、って思っちゃう。遠い未来ならありえなくないけど、その場合、21世紀の記録はどういうことになっているのとも思うし。
っていうか、一ノ谷とニザマは作中の移動時間からいっても距離がそんなに離れてないのに文化違いすぎない? アルデシュはまだ山深いからで納得できなくもないが。
ひとつの国の中での歴史や文化の説明は納得できるのだけれど、それらの国々が近い距離で隣り合っていることには作者の見えざる力を感じて。たとえば『十二国記』みたいに最初から完全に人工的に作られた世界ならいいんだけど、世界の中での自然の理と作者の都合が中途半端に混じっていてどうにも気持ち悪かった。
そして、「図書館の魔女」は魔女という名前でありながら魔術を否定しているというところがおもしろさのひとつだと思うんだけど、じゃあ高い塔では階段が一方通行だとか、最初にキリヒトが来た時に名前が書いてあった云々は何だったの。
なんでそれが彼女の中では同居しているんだ……。
あと、主にこの世界何なのってところにとてももやもやしました。……それについては後述。
こういう物語は確かにほかに類を見ないですね。
ファンタジーと謳っているけれども、剣や魔法や冒険が殊更に強調されるわけではなく。
推論や謎解きめいたことは行われるけれども、それは主眼ではなく。
言語学、地政学、文献学、それからもちろん図書館学に関する確かな知識に基づいて書かれている。ボーイミーツガールであり、権謀術数と陰謀の物語でもあり。
まずは好きなところから。
特に好きなシーンが三つあります。
あ、順番はページ順で特に意味はないです。
一つ目は、第二部で「こんなに嵐がひどくなると知りたらましかば……」という一言の会話から、マツリカが推測をめぐらし、陰謀を暴き出すところ。
9マイルっぽいですし、ここが一番ミステリー的でおもしろかったです。
マツリカのような、ばらばらの知識を繋ぎ合わせてひとつの絵を描くタイプの謎解き(といってもいいのだろうか)はあまり読んだことない気がします。
私は大学で日本史やってたからその手法が歴史学っぽいと思うけど、作者は言語学者だしほかの文系学問もそうなのかもしれない。
この「知りたらましかば」というフレーズから演繹していく推測それ自体は、特に後半言語学の難しそうなことを言い出したあたりからよくわからなくなって読み飛ばし気味だったのですが……。そもそもそういう言語があるかどうか自体が物語中の拵えごとなので自作自演感もあった。
この台詞と話者の恰好や状況から結論を導き出すこと自体がわくわくしました。
二つ目に好きなシーンは、第四部の三国会談。
全体的にこれまでにやってきたことが実を結んでいる感じがして好き。
何が良いって、数字をあげて理論的に正しく説明していても、結局相手国の人々の心の扉をこじ開けたのは、キリンの人柄というか「私が説得します」の一言だったということ。
理に拠りすぎているマツリカの危うさがしばしば言及されていたので、それが後々響くのかなーと思っていたらそうでもなかったわけですが、ともかくここのキリンはマツリカとは好対照で良かったです。
結局人が動くのは感情なんだと私は思うから。
マツリカならそれすら見越して説得役をキリンにしていたのだろうけれども。
それから、突然のトラブルに工夫するマツリカとキリヒトと衛兵たちと、それすらも見破っていたコダーイの慧眼。
「水槌を動かすときは、彼も連れて行かなくてはいけないのかね?」的な台詞にはちょっと笑った。
物語の効果的にもここでコダーイも智将だと示すことで後々につながるんだな、っていうのもわかるけれども、普通に読んでてどきどきして楽しかったです。
さらに見破られてなお、交渉の道具にしてしまうマツリカのはったりも、知恵比べの趣があってよかった。
三つ目は、最後の戦いのあとで言語が通じなくても言葉が通じたところです。
ひたすら熱かった。
言葉とは何か、という話を最初からしていたのが、こういうかたちで示されるのか。
言語ではなく、声でもなく、伝えようとするところに言葉はある。
伝えたいことがあるから、言葉は伝わる。
言葉を弄して長大な物語を書いているけれども、この物語の最も核になるところのひとつがこのシーンだったのではないかと思います。
なんていうか読む前や序盤で想像していたよりもずっとキャラクターを好きになれた小説でした。
テンプレ的ではないけれども、だからこそ一人ひとりに血肉がある感じ。
といいつつ、マツリカだけは過去が見えないけれども。
主役格のマツリカとキリヒト、ハルカゼとキリンはもちろん、ほかのキャラクターも魅力的で、彼らの物語のこれからを知りたいです。
衛兵の人たちも好きで、最初は五人の違いも分からなかったけれども、それぞれの図書館との関わり方の違いから区別が明確になっていった。本が好きな人ばかりではないところもリアルな気がしてよかったです。
イズミルが裁たれていない折本を見つけたシーンは、なんとなくランガナタンの「すべての人にその人の本を」「すべての本にその読者を」という法則を思い出しました。
ところでイラムは最初気のいいそそっかしい小母さんだと思っていたので、あとでアキームが……ってなったときに戸惑いました。登場シーン読み返したら年恰好は特に書いてなかった。なんで思い込んでいたんだろう。
キリヒトの師匠の年齢が謎っぽい話は、特に回収されてないですよね?
続編で明かされるのかしら……。
一方で、あまり好きではないところ。
まず、地の文。
ものの動きや構造についての説明がかなりわかりにくかったです。これは私の理解力の問題もあるかもしれませんが。
水槌の説明も、断面図まであるのに何が何やらよく分からなかった。
アクションシーンも誰が何をしたかはよく分からないけど、キリヒトすごーい、みたいな。
地名とかも冒頭に地図があるわりには、軍略を話しているときに「半島」って言ってたけどそれはどこの半島なの?みたいなことが何度もありました……。
ものの動きとか場所とか構造とか、そういうところは読み飛ばしてしまってもそんなに問題ないかなと思っているのでいいんだけど、これだけ文章量あってこんなにわかりにくいのかとは思った。
そして、地の文の話者がいったいどういう立ち位置なのかってのもとても気になった。
これは完全に私の趣味の問題だと思うんですけど。地の文は何目線かっていうところに興味がある。そこに物語上意味があればとても良いし、ないのならどちらかというとフラットであってほしい。
『図書館の魔女』は語り口が講談っぽいかなとは思いました。一文の長さや句読点の使い方が古典っぽいのと、時折机を叩いて煽る感じ。
ただ、煽りすぎというか……たとえば人形芝居を観たシーンで「キリヒトが見ていれば」みたいな文がやたら多かったのとかが正直うざかったです。それは分かってるから、早く物語を先に進めて!って思った。
語り手が結構でばっているわりには、その視点がどこにあるのか何者かが特に明かされず、というか作者の埒外なのかもしれないけど、私の趣味からは微妙でした。
あとこの作品で一番気持ち悪かったのが、世界観の中途半端さ。
最初、異世界ファンタジーだと思って読み始めたんですよ。でも、第3部の文献学講義を読んで、はぁ!?ってなった。
言語名(ラテイナとかグラエカとか)はまだ現実のものをモデルにして書いて、その言葉によって翻訳しているものと納得できるんですけど。
どうして、プトレマイオスとかアナトリアとかそういう固有名詞が出てくるの。その後も文殊菩薩とかミノタウロスが出てくるし。
そういう固有名詞は、この現実世界にある固有の人やものと結びついていると思うので、それが異世界で出てくるのには違和感がある。……ファンタジー警察的なものに誤解されても嫌だから釈明すると、異世界人がパン食べようがじゃがいも食べようが、似たものを読者の分かりよく「パン」とか「じゃがいも」に訳しているんだと考えるので普通名詞ならよほどでなければ気にしないんだけど。むしろたとえば「ターキッシュディライト」より「プリン」の方が魅力が読者に伝わるのならその方がいいじゃんって思っている。でもメロスが「名無三」って言うのは世界観を壊す気がして嫌だ、みたいな感じです。
閑話休題。
でも「図書館の魔女」の物語は、それらの固有名詞があるからといって現実世界の過去に(あるいは遠い未来に)どこかで起きていたこと、と思うにしては世界観が固有すぎてどうにも納得できない。だってこの世界に「高い塔」なんてないじゃん、って思っちゃう。遠い未来ならありえなくないけど、その場合、21世紀の記録はどういうことになっているのとも思うし。
っていうか、一ノ谷とニザマは作中の移動時間からいっても距離がそんなに離れてないのに文化違いすぎない? アルデシュはまだ山深いからで納得できなくもないが。
ひとつの国の中での歴史や文化の説明は納得できるのだけれど、それらの国々が近い距離で隣り合っていることには作者の見えざる力を感じて。たとえば『十二国記』みたいに最初から完全に人工的に作られた世界ならいいんだけど、世界の中での自然の理と作者の都合が中途半端に混じっていてどうにも気持ち悪かった。
そして、「図書館の魔女」は魔女という名前でありながら魔術を否定しているというところがおもしろさのひとつだと思うんだけど、じゃあ高い塔では階段が一方通行だとか、最初にキリヒトが来た時に名前が書いてあった云々は何だったの。
なんでそれが彼女の中では同居しているんだ……。
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『子供たちは狼のように吠える』
おもしろかった!
物語にすごく没頭できて、2冊続けて一気に読みました。
……なぜか全3巻だと思い込んでたので2巻を読み終えて、あれ?こうなって終わり?って思いました。
読後感がとても爽やかで良かった。
伊坂幸太郎の殺し屋シリーズなんかを思い出しました。
あらすじを簡単に説明すると、
日本領サハリンで暮らす日本人の少年、朝倉セナ。ある日セナの両親は惨殺され、彼自身もヤクザが子供たちを手駒として教育するための「学校」へ売り飛ばされる。セナはそこでロシア人の少年ニカと出会い、協力して大人たちに復讐する。
その後、ニカとセナは未成年だけで構成された犯罪組織「ピオネール」を立ち上げ、彼らの組織はサハリン島の闇社会を二分する勢力にまで成長した。そんな彼らの前に立ちはだかるのは、かつて「学校」を運営していたヤクザ「北狼会」だった。
暴力とセックスとドラッグ、みたいな、バイオレンスでハードな小説なのですが、そこまで不快感はなかったです。
たぶん文章がさらっとしていたからだと思う。
人もばんばん死んでいくし、読んでいてしんどいのだけれども、しんどいのは書かれている内容というかストーリーであって、文章や書き方ではないという感じ。
人を殺すシーンや拷問するシーンがもっと執拗にグロテスクに描写されていたら読むのがつらかっただろうと思う。
そういう文章についてもそうなんだけれども、全体として作者の意図が透けて見える感じがあまりなくて、物語にどっぷりとはまれたので読んでいて楽しかったです。
意図が見えにくいのは、この作者さんの小説を読むのが初めてということもあるかもしれませんが。
というか、セナとニカの人物設定だとか、日本領サハリンという舞台とか、プロットそれ自体とか、ヤクザが変態のおっさんばかりだとか、そういうところが作者の意図ではあるんだろうけれども、それは物語の進行を妨げないので。作者の意図が見える・見えないというよりも、作者の意図が物語の展開をねじまげるとか、ご都合主義すぎる気がしてしまうのが問題なのであって、そうでないならどれだけ趣味が見えても楽しめるんですよね。
とにかく、この作品でおもしろいのは何よりもストーリーだったかな、という印象です。
刻々と変わる状況や、アクションシーンにドキドキハラハラわくわくする。混じりけなしのエンタメ小説でした。
でも設定もスタイリッシュでかっこよくて好き。
舞台となるサハリンは日本の領土で、ということはたぶん日本は第二次大戦で現実のような負け方はしていないんだけど、そこの詳細はほとんど語られない。それが少し物足りなくもあるけれども、背景に過ぎないから説明されなくても仕方がないように思う。
街の建物はCO2構造体という謎の素材でできているし、壁とかはマイクロマシンで「スプレイ」されて、電子的なディスプレイのようになっている。マイクロマシンは脳の神経物質を電子的に書き換えるドラッグにも使用されている。
ハヤカワから出ているし、近未来でこういうガジェットはSFみたいなのだけれども、小難しい説明はないので全然SF小説じゃかったです。
どうしてこの舞台は日本領サハリンに設定されていたのだろうとも考えてみる。
外国人労働者と不法移民が多くて治安が最悪で、でも日本で、ロシア人と日本人の少年が活躍できる世界ということで作られた舞台なのだろうけれども。
外国人労働者は低賃金で危険な仕事に就いていて日本人との間には格差があるとか、サハリンの社会が実際にあってもおかしくないという説得力を感じるほど、舞台設定に無駄がないように思えるので、理由はもはやどうでもいいような気持ちになる。
たとえばサハリンではなく台湾でニカが中国人なり少数民族であったりしても物語の進行に問題はないのだろうけど、だからこそそれが作者のこだわりだったのかなぁ。
ニカとセナの関係性はとにかくもうやばいです。好き。
愛というよりも依存と執着。
互いに命を救われた恩義以上に、惹かれているのだと思います。はじめから終わりまで。
「兄弟」の契りを交わしたのは彼らにとって関係を言語化するための形式にすぎなかったんじゃないかという気もする。私はその誓いの意味を知らないから違うかもしれないけど、実質的にはそうだったんじゃないか。
けれども考え方ややり方が違うから完全に分かり合えることはない。だからこそ相棒になれるのかしら、って。
どうでもいいんですけど、ニカのビジュアルは完全にユリオ(on ICE)でイメージしていました。
ケンゴは、彼目線で見るとすごく切ないですよね。
片想いをこじらせている。
後々これが絶対に禍根になるだろうと思ったら案の定でした。
同情はできるけれども、そりゃニカを選ぶよね、っていう気もするので。
1巻のラストでフカミ刑事が言っていた言葉が引っかかっている。
「彼らは、生まれながらの犯罪者だ」という台詞。
むしろ生まれながらに犯罪者になる因子があっても、環境がそろわなければそうはならないんだろうと思うんですよね。
セナは両親が殺されなかったら、本土の高校に行って普通の大人になったんじゃないかと希望も込めて私は思っている。成長しても、犯罪に関わりのない人を殺すことには躊躇しているように。
コトヒラがセナの「選ばなかった未来」みたいな感じがするけれども、でもセナが「学校」から脱出できなかったらコトヒラのようになっていたのか? コトヒラは学校から逃げられていても、犯罪者になっていただろうけれど「ピオネール」は作れなかったと思う。
「学校」にいた子供たちも、ケンゴしか残れなかったし。
クラキ・リサの「悪い人は、みんな大人だから」という言葉も印象深いです。
差別され足蹴にされ弱い立場にいる子供たちが、復讐のために武器をとるのは悪なのか。
ビートルの老人やクラキ・リサがセナとニカに罪となってのしかかっていること自体が彼らが子供である証のようにも感じられた。……というのは感傷的すぎるか。
物語にすごく没頭できて、2冊続けて一気に読みました。
……なぜか全3巻だと思い込んでたので2巻を読み終えて、あれ?こうなって終わり?って思いました。
読後感がとても爽やかで良かった。
伊坂幸太郎の殺し屋シリーズなんかを思い出しました。
あらすじを簡単に説明すると、
日本領サハリンで暮らす日本人の少年、朝倉セナ。ある日セナの両親は惨殺され、彼自身もヤクザが子供たちを手駒として教育するための「学校」へ売り飛ばされる。セナはそこでロシア人の少年ニカと出会い、協力して大人たちに復讐する。
その後、ニカとセナは未成年だけで構成された犯罪組織「ピオネール」を立ち上げ、彼らの組織はサハリン島の闇社会を二分する勢力にまで成長した。そんな彼らの前に立ちはだかるのは、かつて「学校」を運営していたヤクザ「北狼会」だった。
暴力とセックスとドラッグ、みたいな、バイオレンスでハードな小説なのですが、そこまで不快感はなかったです。
たぶん文章がさらっとしていたからだと思う。
人もばんばん死んでいくし、読んでいてしんどいのだけれども、しんどいのは書かれている内容というかストーリーであって、文章や書き方ではないという感じ。
人を殺すシーンや拷問するシーンがもっと執拗にグロテスクに描写されていたら読むのがつらかっただろうと思う。
そういう文章についてもそうなんだけれども、全体として作者の意図が透けて見える感じがあまりなくて、物語にどっぷりとはまれたので読んでいて楽しかったです。
意図が見えにくいのは、この作者さんの小説を読むのが初めてということもあるかもしれませんが。
というか、セナとニカの人物設定だとか、日本領サハリンという舞台とか、プロットそれ自体とか、ヤクザが変態のおっさんばかりだとか、そういうところが作者の意図ではあるんだろうけれども、それは物語の進行を妨げないので。作者の意図が見える・見えないというよりも、作者の意図が物語の展開をねじまげるとか、ご都合主義すぎる気がしてしまうのが問題なのであって、そうでないならどれだけ趣味が見えても楽しめるんですよね。
とにかく、この作品でおもしろいのは何よりもストーリーだったかな、という印象です。
刻々と変わる状況や、アクションシーンにドキドキハラハラわくわくする。混じりけなしのエンタメ小説でした。
でも設定もスタイリッシュでかっこよくて好き。
舞台となるサハリンは日本の領土で、ということはたぶん日本は第二次大戦で現実のような負け方はしていないんだけど、そこの詳細はほとんど語られない。それが少し物足りなくもあるけれども、背景に過ぎないから説明されなくても仕方がないように思う。
街の建物はCO2構造体という謎の素材でできているし、壁とかはマイクロマシンで「スプレイ」されて、電子的なディスプレイのようになっている。マイクロマシンは脳の神経物質を電子的に書き換えるドラッグにも使用されている。
ハヤカワから出ているし、近未来でこういうガジェットはSFみたいなのだけれども、小難しい説明はないので全然SF小説じゃかったです。
どうしてこの舞台は日本領サハリンに設定されていたのだろうとも考えてみる。
外国人労働者と不法移民が多くて治安が最悪で、でも日本で、ロシア人と日本人の少年が活躍できる世界ということで作られた舞台なのだろうけれども。
外国人労働者は低賃金で危険な仕事に就いていて日本人との間には格差があるとか、サハリンの社会が実際にあってもおかしくないという説得力を感じるほど、舞台設定に無駄がないように思えるので、理由はもはやどうでもいいような気持ちになる。
たとえばサハリンではなく台湾でニカが中国人なり少数民族であったりしても物語の進行に問題はないのだろうけど、だからこそそれが作者のこだわりだったのかなぁ。
ニカとセナの関係性はとにかくもうやばいです。好き。
愛というよりも依存と執着。
互いに命を救われた恩義以上に、惹かれているのだと思います。はじめから終わりまで。
「兄弟」の契りを交わしたのは彼らにとって関係を言語化するための形式にすぎなかったんじゃないかという気もする。私はその誓いの意味を知らないから違うかもしれないけど、実質的にはそうだったんじゃないか。
けれども考え方ややり方が違うから完全に分かり合えることはない。だからこそ相棒になれるのかしら、って。
どうでもいいんですけど、ニカのビジュアルは完全にユリオ(on ICE)でイメージしていました。
ケンゴは、彼目線で見るとすごく切ないですよね。
片想いをこじらせている。
後々これが絶対に禍根になるだろうと思ったら案の定でした。
同情はできるけれども、そりゃニカを選ぶよね、っていう気もするので。
1巻のラストでフカミ刑事が言っていた言葉が引っかかっている。
「彼らは、生まれながらの犯罪者だ」という台詞。
むしろ生まれながらに犯罪者になる因子があっても、環境がそろわなければそうはならないんだろうと思うんですよね。
セナは両親が殺されなかったら、本土の高校に行って普通の大人になったんじゃないかと希望も込めて私は思っている。成長しても、犯罪に関わりのない人を殺すことには躊躇しているように。
コトヒラがセナの「選ばなかった未来」みたいな感じがするけれども、でもセナが「学校」から脱出できなかったらコトヒラのようになっていたのか? コトヒラは学校から逃げられていても、犯罪者になっていただろうけれど「ピオネール」は作れなかったと思う。
「学校」にいた子供たちも、ケンゴしか残れなかったし。
クラキ・リサの「悪い人は、みんな大人だから」という言葉も印象深いです。
差別され足蹴にされ弱い立場にいる子供たちが、復讐のために武器をとるのは悪なのか。
ビートルの老人やクラキ・リサがセナとニカに罪となってのしかかっていること自体が彼らが子供である証のようにも感じられた。……というのは感傷的すぎるか。
『バチカン奇跡調査官』
天才科学者の平賀と、古文書・暗号解読のエキスパート、ロベルト。二人は良き相棒にして、バチカン所属の『奇跡調査官』──世界中の奇跡の真偽を調査し判別する、秘密調査官だ。修道院と、併設する良家の子息ばかりを集めた寄宿学校でおきた『奇跡』の調査のため、現地に飛んだ二人。聖痕を浮かべる生徒や涙を流すマリア像など不思議な現象が二人を襲うが、さらに奇怪な連続殺人が発生し──。(版元より)
以前からずっと気にはなっていたのですが、ようやく読みました。
アニメ化もするというし、文庫の表紙の雰囲気とかもあって、もっとこう、バディもの!ブロマンス!キャラ文芸!って感じなのかと思いきや、そうでもなかったのが意外……。
シリーズ読んでいくともっとキャラに親しみをもてるようになるのかしら。
今回読んだのが図書館で借りた単行本版だったので、文庫だと加筆修正あるのかもしれないですね。
キャラ文芸かなっていうのもそうなのだけれども、初めて読む作家さんなので、読む前や序盤なんかは、こういう傾向の話なのかなと想像して読んでいたわけなのですが、想像とはけっこう違っていましたね……。
英国妖異譚とか、シュヴァルツ・ヘルツとか、今まで自分の読んだものから似てるっぽいタイトルがいろいろ浮かんできて、でもそれじゃないっていう風にも感じました。もっとも、完全に一致するなら新しいシリーズに手を出す必要はないわけですが。
うーんと、文句をつけたいところはいろいろあって。
文章がどうもぶつ切れに感じるとか。
衒学的なところも、ミステリ的なところも、説明が単なる情報提示っぽくなってしまっているとか。しかも衒学的といいつつ、Wikipediaレベルではと感じちゃうとか。
キャラの印象が安定しないとか。
平賀が天才科学者だけれども日常生活には疎いというのも、調査をしている最中は日常じゃないからかもしれないけれどもあまり感じなかったですし。
ロベルトが、古書と暗号解読のプロっていう割にはルーン文字のアルファベット置換も知らなくて、ワトソン役にしてもあまりにポンコツじゃない?って思いました。
二人の関係性的なものも、プロローグでしか感じられず拍子抜けした。
それでも、嫌いとか苦手ではなくて、引っかかるところはありつつも、続編も読んでみたいとは思っています。
基本的には私、こういう神秘的な現象と思われたものが合理的に説明できるタイプのミステリは好きなんですよね。
それから、陰謀論めいたものも。
キリスト教やカルトやナチスよりは、日本の神信仰なんかの方が興味を惹かれる分野なので、朱雀十五シリーズの方も読んでみたいです。
情報提示の仕方は本当にただの情報って感じで、小説に落とし込めてない印象でしたが、それらの情報をこうやって繋げるのか、というところはおもしろかったです。
だからこそなおさら、あそこまで冗長な説明いらなかったのではって思ってしまうけど。
なんていうか、かぎかっこでくくられた台詞なのに会話じゃなくて説明文、Wikipediaの朗読、って感じがしたんですよね。
セバスチャンの一人称の部分が、話が進むにつれて学園の在り方に染まっていくところがぞっとしました。彼の場合は信仰するようになったものは、キリスト教であり、洗脳されていたのだからあれでもあったのだけれども、その基盤はマリオ・ロッテという同級生だったというのがすごく良いですよね。生徒会長で寮長でホワイト・プリンスというあだ名を持つ、というのは設定盛りすぎって気もしますけれども(笑)
同年代の同性ばかり集められた全寮制の学校では、そういうかたちでの崇拝は起こりうる、と私は夢見ているし。
それから、同じ信仰に見えても、そのかたちや内面は一人ひとり違うっていうのがすごく納得できるエピソードになっていて。
だからこそ、手記に書かれていた異常な信仰の形態も、ひとつのかたちとしてすんなり認められたのかもしれない。その善悪は別として。
でも結局、洗脳にしてもコールって何とか、ウイザードマスターとウィジャ盤は学園において何の意味を持っていたのか(物語上で暗号解読の鍵というだけ?)すっきりしないところも残る。
プロローグの2節は何だったんだろうとか。
あっ、というか、有耶無耶になったけれども結局なんで犯人が殺人を犯してたのか分からないんだけど。
最初の三人は姦通の罪でいいのかしら。他の人は、ヨハネス学院長が殺されたのと同じ理由?
殺人の理由も分からないし、殉教者に見立てていた理由も特に説明されてなかったような気がします。
マリオ・ロッテが傷つけられた意味もよく分からないし。
狂人の論理ならなおさら、その論理を提示してほしかったです。ただ「彼は狂っているから」だけじゃ納得できないめんどくさい読者なんです、私。
復活が目的なら、殺人その他は必要なかったのでは。見せしめー?
読んだ直後は、立ち回りやらいろんな事実が判明したことで気にならなかったことが、冷静になって思い返そうとするとよく分からなくなってきます。
ラストシーンも、え、それでいいの?って思いました。無宗教の立場からすると、カソリック側もそんなに変わらないんじゃないのって感じてしまう。
ところであのシーンで、これ実は聖水じゃなくて王水じゃないかって思ってたら当たらずとも遠からずでちょっと笑った。
感想が文句ばっかりになってしまったけれども、それなりに楽しんで読めたんですよ。本当に。
以前からずっと気にはなっていたのですが、ようやく読みました。
アニメ化もするというし、文庫の表紙の雰囲気とかもあって、もっとこう、バディもの!ブロマンス!キャラ文芸!って感じなのかと思いきや、そうでもなかったのが意外……。
シリーズ読んでいくともっとキャラに親しみをもてるようになるのかしら。
今回読んだのが図書館で借りた単行本版だったので、文庫だと加筆修正あるのかもしれないですね。
キャラ文芸かなっていうのもそうなのだけれども、初めて読む作家さんなので、読む前や序盤なんかは、こういう傾向の話なのかなと想像して読んでいたわけなのですが、想像とはけっこう違っていましたね……。
英国妖異譚とか、シュヴァルツ・ヘルツとか、今まで自分の読んだものから似てるっぽいタイトルがいろいろ浮かんできて、でもそれじゃないっていう風にも感じました。もっとも、完全に一致するなら新しいシリーズに手を出す必要はないわけですが。
うーんと、文句をつけたいところはいろいろあって。
文章がどうもぶつ切れに感じるとか。
衒学的なところも、ミステリ的なところも、説明が単なる情報提示っぽくなってしまっているとか。しかも衒学的といいつつ、Wikipediaレベルではと感じちゃうとか。
キャラの印象が安定しないとか。
平賀が天才科学者だけれども日常生活には疎いというのも、調査をしている最中は日常じゃないからかもしれないけれどもあまり感じなかったですし。
ロベルトが、古書と暗号解読のプロっていう割にはルーン文字のアルファベット置換も知らなくて、ワトソン役にしてもあまりにポンコツじゃない?って思いました。
二人の関係性的なものも、プロローグでしか感じられず拍子抜けした。
それでも、嫌いとか苦手ではなくて、引っかかるところはありつつも、続編も読んでみたいとは思っています。
基本的には私、こういう神秘的な現象と思われたものが合理的に説明できるタイプのミステリは好きなんですよね。
それから、陰謀論めいたものも。
キリスト教やカルトやナチスよりは、日本の神信仰なんかの方が興味を惹かれる分野なので、朱雀十五シリーズの方も読んでみたいです。
情報提示の仕方は本当にただの情報って感じで、小説に落とし込めてない印象でしたが、それらの情報をこうやって繋げるのか、というところはおもしろかったです。
だからこそなおさら、あそこまで冗長な説明いらなかったのではって思ってしまうけど。
なんていうか、かぎかっこでくくられた台詞なのに会話じゃなくて説明文、Wikipediaの朗読、って感じがしたんですよね。
セバスチャンの一人称の部分が、話が進むにつれて学園の在り方に染まっていくところがぞっとしました。彼の場合は信仰するようになったものは、キリスト教であり、洗脳されていたのだからあれでもあったのだけれども、その基盤はマリオ・ロッテという同級生だったというのがすごく良いですよね。生徒会長で寮長でホワイト・プリンスというあだ名を持つ、というのは設定盛りすぎって気もしますけれども(笑)
同年代の同性ばかり集められた全寮制の学校では、そういうかたちでの崇拝は起こりうる、と私は夢見ているし。
それから、同じ信仰に見えても、そのかたちや内面は一人ひとり違うっていうのがすごく納得できるエピソードになっていて。
だからこそ、手記に書かれていた異常な信仰の形態も、ひとつのかたちとしてすんなり認められたのかもしれない。その善悪は別として。
でも結局、洗脳にしてもコールって何とか、ウイザードマスターとウィジャ盤は学園において何の意味を持っていたのか(物語上で暗号解読の鍵というだけ?)すっきりしないところも残る。
プロローグの2節は何だったんだろうとか。
あっ、というか、有耶無耶になったけれども結局なんで犯人が殺人を犯してたのか分からないんだけど。
最初の三人は姦通の罪でいいのかしら。他の人は、ヨハネス学院長が殺されたのと同じ理由?
殺人の理由も分からないし、殉教者に見立てていた理由も特に説明されてなかったような気がします。
マリオ・ロッテが傷つけられた意味もよく分からないし。
狂人の論理ならなおさら、その論理を提示してほしかったです。ただ「彼は狂っているから」だけじゃ納得できないめんどくさい読者なんです、私。
復活が目的なら、殺人その他は必要なかったのでは。見せしめー?
読んだ直後は、立ち回りやらいろんな事実が判明したことで気にならなかったことが、冷静になって思い返そうとするとよく分からなくなってきます。
ラストシーンも、え、それでいいの?って思いました。無宗教の立場からすると、カソリック側もそんなに変わらないんじゃないのって感じてしまう。
ところであのシーンで、これ実は聖水じゃなくて王水じゃないかって思ってたら当たらずとも遠からずでちょっと笑った。
感想が文句ばっかりになってしまったけれども、それなりに楽しんで読めたんですよ。本当に。
『明日という過去に』
連城三紀彦の書簡小説。
学生時代の先輩後輩で二十年以上姉妹のように信頼し合ってきた二人の女性が、夫の死を機に文通を始めるが、愛憎をぶつけていく……という話。
手紙には巧みに嘘が織り込まれ、文通が続くにつれて意外な局面が浮かび上がってくるのがおもしろいのだろうとは思うのですが。
私はあまり好きではなかったです。
まず、不倫をする人間が好きになれない。
この時点でマイナス1000ポイントぐらいになり、登場人物に何も共感できないため読んでてイラッとしてきて、小説自体への評価も辛くなってしまったんだろうと思います。
あと、表面上は仲良くしているけど内心では憎悪しあっている人たちを見るのも苦手なので……。
その2点で、なんでこれを読んでしまったんだろうという感じです。
小説の良し悪し以前に、設定との相性がめちゃくちゃ悪かった。
文通をしている女性たちは嘘つきなので、手紙の中には「私は嘘をついています」という言葉や、「嘘!」という告発がたびたびある。
けど、何が嘘で何が事実かの弁別は、読者には一切できないんですよね。
そこのところも私は少し好みではなかったです。
手紙のやりとりでしか物語の推移を追えないので、手紙の書き手の読み取らせたいようにしか起こったことを把握するしかないという理屈はわかるし、その点では巧く出来ているのかもしれないとも思う。
たとえばこれが、丹念に記述を見ていけば矛盾点が見つかり、明らかに嘘を言っていると読者にも判断できるのであれば、ここまでストレスはたまらなかったんだろうと思います。
この小説の中で、手紙の記述を嘘だと判断する根拠は、登場人物たちの過去や性格や関係性にしかない。手紙のやりとりをしている彼女たちだからこそ、互いの嘘を嘘だと知れて、告発できる。
でも読者は過去も性格も何もかも、嘘つきな語り手たちの言葉からしか推測できないので、どこまでも疑えてしまう。
もしかしたら、その「嘘」という言葉自体が嘘かもしれない。最後の手紙に書いてあった「真相」だって嘘で、物語には書かれていないけれども文通は続くのかもしれない。……でも私は永遠に続く感情のぶつけあいを、読みたいわけではないんだ。
べつに、彼女たちが手紙に嘘を書いていること自体が苦手と思ったわけではないです。
自分を騙したいがために嘘をついて、人をも騙そうとするその感情は、私にも覚えがないわけじゃない。
登場人物たちがしていることにも、していると思わせたかったことにも、何一つ共感や感情移入できないし好きじゃないけど。具体的なことを削ぎ落として感情の根源に迫れば、理解できる。
うーん。ミステリと思って読んだのが悪かったのかもしれません。
確かに、「綾子の手紙」の六通目の最期の一行ではテンションが上がりました。
連城さんだからそういうことをどこかでしかけてくるんだろう、とは思っていたものの、やっぱりゾクゾクする。
特に何かが起こっているわけでもないのに、一冊の中で見え方がどんどん変わっていくところも、巧いと思う。
ただ、書簡小説で書き手が複数人いるはずなのに、誰が書いてても同じという感はあった。正直なところ、文体がずっと変わらないように感じました。
二重写しのような彼女たちのあり方が、文章に反映されているのかもしれないですが。意図的であれ、単調な気がした。
文章自体は美しいのだけれども。
内容が気に入らないせいも多々あるのだろうけど、大げさな言葉で自分に酔っているだけの馬鹿な女たち、という印象をこの少し古風な人工的で美しい文体が増幅しているように思えました。
……もしかすると、そこまで効果を考えて緻密に組まれた物語かもしれない。だとしたら本当にすごいと思います。
あまりに登場人物の語りがうざすぎて、この作家は女性が嫌いなのだろうか、ということまで考えた。
学生時代の先輩後輩で二十年以上姉妹のように信頼し合ってきた二人の女性が、夫の死を機に文通を始めるが、愛憎をぶつけていく……という話。
手紙には巧みに嘘が織り込まれ、文通が続くにつれて意外な局面が浮かび上がってくるのがおもしろいのだろうとは思うのですが。
私はあまり好きではなかったです。
まず、不倫をする人間が好きになれない。
この時点でマイナス1000ポイントぐらいになり、登場人物に何も共感できないため読んでてイラッとしてきて、小説自体への評価も辛くなってしまったんだろうと思います。
あと、表面上は仲良くしているけど内心では憎悪しあっている人たちを見るのも苦手なので……。
その2点で、なんでこれを読んでしまったんだろうという感じです。
小説の良し悪し以前に、設定との相性がめちゃくちゃ悪かった。
文通をしている女性たちは嘘つきなので、手紙の中には「私は嘘をついています」という言葉や、「嘘!」という告発がたびたびある。
けど、何が嘘で何が事実かの弁別は、読者には一切できないんですよね。
そこのところも私は少し好みではなかったです。
手紙のやりとりでしか物語の推移を追えないので、手紙の書き手の読み取らせたいようにしか起こったことを把握するしかないという理屈はわかるし、その点では巧く出来ているのかもしれないとも思う。
たとえばこれが、丹念に記述を見ていけば矛盾点が見つかり、明らかに嘘を言っていると読者にも判断できるのであれば、ここまでストレスはたまらなかったんだろうと思います。
この小説の中で、手紙の記述を嘘だと判断する根拠は、登場人物たちの過去や性格や関係性にしかない。手紙のやりとりをしている彼女たちだからこそ、互いの嘘を嘘だと知れて、告発できる。
でも読者は過去も性格も何もかも、嘘つきな語り手たちの言葉からしか推測できないので、どこまでも疑えてしまう。
もしかしたら、その「嘘」という言葉自体が嘘かもしれない。最後の手紙に書いてあった「真相」だって嘘で、物語には書かれていないけれども文通は続くのかもしれない。……でも私は永遠に続く感情のぶつけあいを、読みたいわけではないんだ。
べつに、彼女たちが手紙に嘘を書いていること自体が苦手と思ったわけではないです。
自分を騙したいがために嘘をついて、人をも騙そうとするその感情は、私にも覚えがないわけじゃない。
登場人物たちがしていることにも、していると思わせたかったことにも、何一つ共感や感情移入できないし好きじゃないけど。具体的なことを削ぎ落として感情の根源に迫れば、理解できる。
うーん。ミステリと思って読んだのが悪かったのかもしれません。
確かに、「綾子の手紙」の六通目の最期の一行ではテンションが上がりました。
連城さんだからそういうことをどこかでしかけてくるんだろう、とは思っていたものの、やっぱりゾクゾクする。
特に何かが起こっているわけでもないのに、一冊の中で見え方がどんどん変わっていくところも、巧いと思う。
ただ、書簡小説で書き手が複数人いるはずなのに、誰が書いてても同じという感はあった。正直なところ、文体がずっと変わらないように感じました。
二重写しのような彼女たちのあり方が、文章に反映されているのかもしれないですが。意図的であれ、単調な気がした。
文章自体は美しいのだけれども。
内容が気に入らないせいも多々あるのだろうけど、大げさな言葉で自分に酔っているだけの馬鹿な女たち、という印象をこの少し古風な人工的で美しい文体が増幅しているように思えました。
……もしかすると、そこまで効果を考えて緻密に組まれた物語かもしれない。だとしたら本当にすごいと思います。
あまりに登場人物の語りがうざすぎて、この作家は女性が嫌いなのだろうか、ということまで考えた。
『うちの執事に願ったならば』
高里先生の執事シリーズ、2ndシーズン!
2ndシーズンになって何が変わったというのは特には名伏しがたいのですが、相変わらずすれ違いつつも、信頼度は増している感がとても良かったです。
信頼度が増しているのは、タイトルからも感じます。「言うことには」より「願ったならば」の方が、執事をより知って、願いを叶えてくれることを確信している。
「命じる」ではなく、「願う」という言葉を使うところに、主従関係が契約によってではなく信頼関係によって結ばれていることが推測されて良いです。
実際、タイトルだけじゃなくて物語中でも、一話目から花穎が「当主として」部下のために事件に関わろうとするのは止めないところに関係性の変化が見える気がします。以前なら頭ごなしに危険から遠ざけようとしていたかもしれない。
(そしてその直後の「……お戯れを」という台詞がまた萌えますよね!シチュエーションというより台詞単体でかもですが)
花穎と衣更月に限らず、すれ違いとその解消をメインにして話を組み立てるのは、そしてそれが心に響くものになるのは、高里さんの持ち味だよねって思っています。好きです。
とはいえ正直な話、大好きでずっと何作も読んでいるから、最近はパターンが読めてきてかつてのように大きな衝撃をもって受け止められないところもある、のだけれども。
やっぱり角川文庫薄いし。
講談社ノベルスぐらいの厚さが欲しいです。個人的には。
いや、執事も好きなんだけどね。物足りなさはあります。
今回の話では、花穎が石漱君の家に泊りに行くのですが、夜祭だし初めての「友達の家でお泊り」だし、当然すれ違いが起こるんですよね。
でもそこで、自分と相手が違うということを分かったうえで、だからこそ「同じ」フリはするなと言える石漱君がすごく好きです。彼はとてもシンプルな人なんだろうと思います。
花穎がまわり道して悩むところを、道なき道を走っていくようなところがあるんじゃないかなという気がします。その分きっと、ほかのところで立ち止まることもあるのだろう。彼の歩いている道も、どういうところか知りたいと思う。
石漱君、好きです。
あと、花穎の初めてのお泊りの裏で、花穎の安全を守るためにこっそり行動している衣更月がとてもよかったです。
泊まりに行ける友達ができたことを喜ぶ雪倉親子も。
愛されているんだなっていうのが、心温まります。
そしてそれに応えるように、花穎の方も使用人たちを守ろうという想いがあるのがいいですよね。
裏でこっそり衣更月が働いていたっていうのは、キャラクターの関係や感情としてももちろん好きなのだけれども、ミステリとしても同じ事件を別視点から見ると別物に見えるというのが好きです。
「死神の蝋燭」ではどうにも決着がつかないように見えたこと、黒いズボンの男とか権禰宜の話に抱いた違和感とかが、「執事の秘密と空飛ぶ海月」では説明されていた。
それだけじゃなくて、切られた木だとか、落としたスマホまでも、うまいことひとつの話につながったのが読んでいてとてもおもしろかったです。
この二つの短編の違いは、衣更月と花穎が別の人間だからというよりは、事件に対する関わり方が違うところからきているので、すべてが解明されていないような気がするけれども花穎はそれで納得してしまっていいのかっていう風にはあまり思わなかったです。目的が違うし、持っている情報も違うのだから、むしろそこで止まるのが自然くらいに感じた。
どうでもいいけど、コピペ改変botの文体がすごくそれっぽくておもしろかったです。
花穎が優しいのも情が深くて懐が広くて使用人たちを守ろうとするのもいいんだけど、3話目、おかしいって気づけよ!ってのはもう叫びたかった。
タイムスリップって何言ってんだ、おかしいでしょ、って誰か言ってあげて!
突っ込み不在のまま話が進んでいくのはちょっともどかしかったです。
赤目さんは絶対わかってて面白がっている……。でも赤目さんはそういう人だよね。知ってる。そこが好き。
魔法の呪文で奇跡が起きるのは素敵でした。
旅行の準備をしていたときに、「着替えなし」という峻に対して、花穎が「僕には上級者の嗜み方過ぎる」という台詞があるんですけど、ここの言葉選びが好きです。
自分にはそういうことができないという意思を、相手を不快にさせず、優しく、上品かつユーモラスに伝えるこんな言い回しがあったなんて!
私には逆立ちしたって思いつかない表現です。
こういうところににじみ出る高里先生の品の良さや優しさや他人を慮れる感じが、私が高里先生を好きなところの一つなんだろうなって思います。
作品だけじゃなくって、作品やTwitterやブログからうかがい知れる人柄も含めて、大好きな作家さんです。
あの、全然どうでもいい話なんだけど、今回の話全体的に「名探偵コナン」を思い出すものが多かった気がします。
両方のネタバレするので一応伏せますね。
一話目はコナン5巻のカラオケボックス殺人事件(絶対に触るところに毒をぬって、手掴みで食べる食べ物ばかり用意していた話)だし。
たまたま見聞きした話が実は事件に関係することで、それを公開したことによって危険な目に遭うのは14巻のTWO-MIXだし。
あと同じ事件が視点によって別物になるのは今週アニメでやったばかりのさくら組の話だな、って。
別にここからとったんだろうっていうほど似ているわけじゃないんだけれども、私は両方好きなので、何となく思い出した。そして、そういうものがたまたま続いたなってだけです。
2ndシーズンになって何が変わったというのは特には名伏しがたいのですが、相変わらずすれ違いつつも、信頼度は増している感がとても良かったです。
信頼度が増しているのは、タイトルからも感じます。「言うことには」より「願ったならば」の方が、執事をより知って、願いを叶えてくれることを確信している。
「命じる」ではなく、「願う」という言葉を使うところに、主従関係が契約によってではなく信頼関係によって結ばれていることが推測されて良いです。
実際、タイトルだけじゃなくて物語中でも、一話目から花穎が「当主として」部下のために事件に関わろうとするのは止めないところに関係性の変化が見える気がします。以前なら頭ごなしに危険から遠ざけようとしていたかもしれない。
(そしてその直後の「……お戯れを」という台詞がまた萌えますよね!シチュエーションというより台詞単体でかもですが)
花穎と衣更月に限らず、すれ違いとその解消をメインにして話を組み立てるのは、そしてそれが心に響くものになるのは、高里さんの持ち味だよねって思っています。好きです。
とはいえ正直な話、大好きでずっと何作も読んでいるから、最近はパターンが読めてきてかつてのように大きな衝撃をもって受け止められないところもある、のだけれども。
やっぱり角川文庫薄いし。
講談社ノベルスぐらいの厚さが欲しいです。個人的には。
いや、執事も好きなんだけどね。物足りなさはあります。
今回の話では、花穎が石漱君の家に泊りに行くのですが、夜祭だし初めての「友達の家でお泊り」だし、当然すれ違いが起こるんですよね。
でもそこで、自分と相手が違うということを分かったうえで、だからこそ「同じ」フリはするなと言える石漱君がすごく好きです。彼はとてもシンプルな人なんだろうと思います。
花穎がまわり道して悩むところを、道なき道を走っていくようなところがあるんじゃないかなという気がします。その分きっと、ほかのところで立ち止まることもあるのだろう。彼の歩いている道も、どういうところか知りたいと思う。
石漱君、好きです。
あと、花穎の初めてのお泊りの裏で、花穎の安全を守るためにこっそり行動している衣更月がとてもよかったです。
泊まりに行ける友達ができたことを喜ぶ雪倉親子も。
愛されているんだなっていうのが、心温まります。
そしてそれに応えるように、花穎の方も使用人たちを守ろうという想いがあるのがいいですよね。
裏でこっそり衣更月が働いていたっていうのは、キャラクターの関係や感情としてももちろん好きなのだけれども、ミステリとしても同じ事件を別視点から見ると別物に見えるというのが好きです。
「死神の蝋燭」ではどうにも決着がつかないように見えたこと、黒いズボンの男とか権禰宜の話に抱いた違和感とかが、「執事の秘密と空飛ぶ海月」では説明されていた。
それだけじゃなくて、切られた木だとか、落としたスマホまでも、うまいことひとつの話につながったのが読んでいてとてもおもしろかったです。
この二つの短編の違いは、衣更月と花穎が別の人間だからというよりは、事件に対する関わり方が違うところからきているので、すべてが解明されていないような気がするけれども花穎はそれで納得してしまっていいのかっていう風にはあまり思わなかったです。目的が違うし、持っている情報も違うのだから、むしろそこで止まるのが自然くらいに感じた。
どうでもいいけど、コピペ改変botの文体がすごくそれっぽくておもしろかったです。
花穎が優しいのも情が深くて懐が広くて使用人たちを守ろうとするのもいいんだけど、3話目、おかしいって気づけよ!ってのはもう叫びたかった。
タイムスリップって何言ってんだ、おかしいでしょ、って誰か言ってあげて!
突っ込み不在のまま話が進んでいくのはちょっともどかしかったです。
赤目さんは絶対わかってて面白がっている……。でも赤目さんはそういう人だよね。知ってる。そこが好き。
魔法の呪文で奇跡が起きるのは素敵でした。
旅行の準備をしていたときに、「着替えなし」という峻に対して、花穎が「僕には上級者の嗜み方過ぎる」という台詞があるんですけど、ここの言葉選びが好きです。
自分にはそういうことができないという意思を、相手を不快にさせず、優しく、上品かつユーモラスに伝えるこんな言い回しがあったなんて!
私には逆立ちしたって思いつかない表現です。
こういうところににじみ出る高里先生の品の良さや優しさや他人を慮れる感じが、私が高里先生を好きなところの一つなんだろうなって思います。
作品だけじゃなくって、作品やTwitterやブログからうかがい知れる人柄も含めて、大好きな作家さんです。
あの、全然どうでもいい話なんだけど、今回の話全体的に「名探偵コナン」を思い出すものが多かった気がします。
両方のネタバレするので一応伏せますね。
一話目はコナン5巻のカラオケボックス殺人事件(絶対に触るところに毒をぬって、手掴みで食べる食べ物ばかり用意していた話)だし。
たまたま見聞きした話が実は事件に関係することで、それを公開したことによって危険な目に遭うのは14巻のTWO-MIXだし。
あと同じ事件が視点によって別物になるのは今週アニメでやったばかりのさくら組の話だな、って。
別にここからとったんだろうっていうほど似ているわけじゃないんだけれども、私は両方好きなので、何となく思い出した。そして、そういうものがたまたま続いたなってだけです。