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妖怪と神話とミステリと甘いものが好き。腐った話とか平気でします。ネタバレに配慮できません。

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2024/04/27 (Sat)

『古生物学者、妖怪を掘る』

今年の夏に実家に帰省した時の新幹線で、フリーペーパーに載っていた「荒俣宏妖怪探偵団」という企画をおもしろく読みました。特に、古生物学者の人がその観点から妖怪とされたものを同定しようとしているのが興味深かった。
で、その後、新書になってるんじゃんと気づいて読んだ次第です。

江戸時代の古文献を古生物学の視点から”科学書”として読み解くという試みの本。
その試み自体はすごく興味深いです。
でも提示される解釈は正直あやしいというか、「妖怪」とされたものを解体するには、生物学的な観点だけじゃ不十分ではないかと思いました。たとえば黄表紙の中で洒落や言葉遊びを取り入れたり、ほかの宗教的な事物と習合していたりするので。
とはいえ、それらの解釈を著者自身が絶対的に信じているわけではなく、これをきっかけに議論が起きることこそが本望というのでは、こういう反論をするのも術中にはまっている感じがする。

冒頭で導入として、「鬼になぜ角がついてしまったのか」という話があったのですが。
生物学的には、角をもつ生き物は草食動物だという指摘には、言われて見れば確かになるほどと思った。
でも、ではなぜ鬼に角がついてしまったかって、いろいろ言ってるけど図1に引用している『画図百鬼夜行』の鬼の絵に書いてあるじゃん! 鬼門が丑寅だから牛の角に虎皮って言ってるじゃん! と思ってしまって。
だから、鬼に角があるのは牛の角だし、牛頭邪鬼も牛の頭なわけで、そこを説明しないままに角=悪者のイメージ、と話を進めていってしまうのはフェアじゃないという感覚が拭えなかった。
羊や山羊の角がついているバフォメットとかにしたって、供儀としてのその動物だとか。本書でも触れられていたように、異教の文化に対する解釈の仕方だとか。そういうものが総合的に絡んできているはず。
第三章で言っているように、「生物の基礎ルールを知った上で、どうフィクションとしてつじつまを合わせるか」という話にするとしても、フィクションでその必要はあるのだろうかみたいなことを思ってしまいました。ファンタジー世界ではその限りではないでいいんじゃないみたいな。
でもファンタジーじゃがいも問題のように、気になる人は細部まで気になるのだろうな……。

鵺=レッサーパンダ説、去年ぐらいに「ムー」の広告で見てすごくインパクトがあったのですが、それもこの人だったのかと驚いた。
思っていたよりも説としてちゃんとしていたし、レッサーパンダ化石が日本で出土していたことも初めて知りましたが、それが平安時代までいたかというとやっぱり微妙ですよね。

ヤマタノオロチが洪水でなく火山だという説は不勉強ながら初めて知ったのですが、それはわりと平仄が合う感じがしました。
一つ目妖怪がゾウやイルカというのも、おもしろい。
化石だけ見ると確かにそう見えるのか、って。
もちろん、それがすべてそうではないのだろうけれども。

全体的にこの本は、もっと根拠を見せてほしいというところで深く掘り下げないで、軽い話をするほうにページを割いていたような気がしてちょっと微妙でした。
もっと本気でやってほしかった(?)

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『山と妖怪 ドイツ山岳伝説考』

先月読んだ、プロイスラーのリューベツァール物語集を翻訳したドイツ文学研究者による、山の伝説に関する本。論文なのかな、一応?
もちろん山の妖怪としてリューベツァールにも言及してます。2章くらい割かれてました。

ただ、私に近世ドイツや西洋思想に関する素養がなかったせいで、すごく読みにくかった。基礎教養って大事ですね。もっと勉強しなきゃ。
……大学生のときに読んでたら、もうちょっと関連文献もたどりやすかったのに。という後悔もある。

研究史をまとめている部分はそれでもまだ理解できたというか、そういうものなのかと興味深く受け取れました。
たとえばドイツ民俗学では、習俗や伝説のゲルマン古代との接続はナチズムに利用された過去があるから、慎重さが求められているのとか、言われればそうだけれどもあんまり考慮したことがなかった。
一方で、この本でのこの著者の主張というか結論が何なのかわからなかった。何なのかわからなかったというのは、結論として書いてあったことの意味が理解できなかったということではなく、どこに著者の主張にあたることが書いてあったのかわからなかったという意味です。特に第一部の第二章と第三章!あれは近世ドイツの鉱山世界はそういう観念の場所だったよ、っていうだけなのかしら。
私が不勉強で読解力がないのが悪いんですが。
研究史のまとめではなくて自分の主張になると筆が乗って文章がふわっとするから、オブラートの中にある核の部分がわからなかったのかもしれないというのも若干思ってしまいます……。
この辺で結論っぽいこと言うのかなってときに日本の文学作品とかを例示するのが本当に意味が分からなかったんです。え、それって関係あるの?って思った。
それとも、この本に載っている文章は研究史のまとめと紹介が目的だったのかなぁ。
ちょっと調べてみたら、初出の『希土』って雑誌は論文もそれ以外も載るものらしいから、やっぱり紹介って面も強いのかも。

単純に、この著者の方(でなくてもいいんだけど)がプレトーリウスのリューベツァール物語集を翻訳してくれないかしら。
っていうかむしろ、シレジア側での伝承を読みたいんだけど。ドイツ文学の範囲外になるとはいえ特に言及されてなかったし、日本語でとなるとますます難しいのかしら。
グリムの伝説集ならまだ手軽に読めるかな。リューベツァールは載ってないらしいけども。


この前のプロイスラーの物語集では軽く読み流してしまっていたけれども、この本ではリューベツァールが医薬に通じた性格を持つということがクローズアップされていたんですね。
リューベツァールが住処としていた山リーゼンゲビルゲでは、稀少な薬草類が群生していて、それを使った薬の製造販売業が栄えていた。その薬は「17世紀のライプツィヒで大市(メッセ)まで運ばれ、そこで商いをする小店には、宣伝広告としてリューベツァールの絵が飾られたという」(p289)
リューベツァールはライプツィヒで「民間の医術者たちの『守護霊、家精(spiritus familiaris)もしくはなじみの偶像神として』あがめられている」(p300)
とまあ、引用の引用になるんですが、これってすごくないですか?
というのはもちろん、リベザルがリューベツァールだとして、という前提で。ルーツとしてもともと薬師の性格を持ってたって、すごくテンション上がる。
きっとそういう性格の妖怪だから採用されたんだろうということなんだけれども。


あとおもしろかったのは、ホレさまの章で紹介されていた、デュメジルの「三機能構造」。インド・ヨーロッパ語族には「聖性と主権性/戦闘性/豊饒性から成る三幅対」が神話や社会構造などあらゆるところに存在するという説。
思ったのは、その三権分立ってインド・ヨーロッパ語族に限らないのではっていうことなんですけど。
アマテラス/スサノオ/ツクヨミの三貴子もそのパターンに当てはまるのでは。それぞれ主権/戦闘/豊饒っぽい。
ほかの要素もあるし、なんていうかその性格付けがインド・ヨーロッパ語圏から移入したことも考えられるから日本人にも三機能構造が当てはまるってことはないと思いますが。
三柱の神のセットでも、造化三神とかニニギの子供たちは三機能構造よりもむしろ河合速雄の中空構造の方がすんなりと当てはまる気がしますし。

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『話を聞かない男、地図が読めない女』

今年の目標は確かに「有名な本を読む」なんですけど、これは別にそういうつもりで手に取ったんじゃないんだ……という、誰に向けてというわけでもない言い訳をまず。

性別がなかったとしたら、社会はどうなっているんだろうみたいなことを考えていて。それを考えるための材料に、とりあえず簡単に読めそうだしと思って読みました。


男女の脳の違い、考え方・行動の違いについて書かれた本。タイトル通り、女は空間認識能力がなくて地図が読めないし、男は一度に一つのことしかできないから話が聞けない。ということをいろんな数値やたとえ話をもってきて、おもしろおかしく繰り返す。

基本的に一般向けの科学読み物だし、外国で書かれたもの特有のブラックな感じのユーモアがあるので、内容が難しくないという意味では読みやすいけれども、引っかかるところがある。
引用されている研究は、その引用の仕方で正しいのか。
主張したいと思われる結論に対して、根拠として言っていることは正しいのか。
アンケートなんかの数値自体は操作はないだろうけど、ほかの要因は考えられないのか。
などなど……。
内容の正しさに対する担保が特にないから、読んでなるほどおもしろいと思う分にはいいけど、もう少しかっちりしたものの方が、考える役には立つのだろうなと思いました。

あ、男脳女脳テストでは、女脳よりのオーバーラップでした。
設問が、男子の脳の違いというより、理論か感情かって感じになっていたのはどうなのと思った。

男女で(能力や考え方に)違いがあることはそのとおりなのだろうと思う。
この本が流行った後に生きているから、なおさらそういう考え方がしみついているのかもしれないけれども。
女が社会で成功していないように見えるのは、一般的に言うところの「社会での成功」が男の考える成功基準を女にも当てはめているだけだからだ。という文章に、ハッとした。
思考実験ではなくて、現実の社会についていうのならば、それぞれの違いを活かして協力しあえればいいよね、理想論だけど。

この本の書かれた意図としては、そういった理想論のために互いのできることとできないことを整理しておく目的なのではないかと思うのだけれども、
平均的な行動を書いていくことで、ステレオタイプが際立ち、偏見っぽく見えてしまうのはなんでなんだろう。
ステレオタイプを強調して描く=差別だと思ってしまう、私の捉え方のせいなのかしら。
もしかして、「ステレオタイプを強調して描く=差別」というような社会的文脈があったりする?
ジェンダー論は興味あるけど面倒くさそうなのでちゃんと知らないのですが。
男女は違う生き物なんだから、それを弁えた上で平等を探そうと言ってるそばから、ゲイをジョークとしてオチに持ってきてるのはそれこそ政治的に正しくないだろうと思う。けど、政治的に正しいことが正しくはないよね。

あと気になったのは、社会的な要因についての説明があまりないこと。
女の子あるいは男の子として「らしさ」に基づいて育てられたら刷り込みが行われるのでは。
一応、学習では脳の配線は変わらない、もともとある傾向を伸長するだけだという話ではあるんだけれども。
あーでもこれは、私の方で何が「脳の配線」に由来するもので、何が後天的に学習するものか、区別ついていないから引っかかりを覚えるのかもしれない。
たとえば、女の子が空間能力が低いのは先天的だけれども、ピンクや花柄が好きなのは後天的な学習によるものだと思うんですよね。
あと、あくまで平均的な、全体の傾向の話なので、そうでない場合もよくある。
私は女で、数学苦手だけど、高校のときとか私より数学できない男子いっぱいいたよ?
みたいな個人の経験の話にしてしまうとよくない。

能力や考え方の男女の違いについてはまあおおむね納得できる。
性的指向が胎児期のホルモン量によるというのも、そうなのかもしれないと思う。
でも、たとえばゲイはどちらかというと女脳だとか、レズビアンは空間能力が高いとか、そういったことについては、懐疑的に思ってしまう。
戦国武将には同性愛が横行していたけれども、あの人たちはめっちゃ男性的な気がするんですよね。支配的な性格で、所有したがって。
気がする、思う、というだけなんだけれども。
あとホモセクシュアルとバイセクシュアルはまた違う話なのかもしれないが。
それこそ社会的要因があるのではないか。
「相手探しセンター」と「行動センター」で必要な男性ホルモンの量が違うというのは興味深かったです。

そもそもなぜ、男が狩りをし、女が家事育児をしていたのか。
そういう社会を形成していない哺乳類もいる。
妊娠中は家にいざるをえないから、子育てと家事を両立した方が効率的だから、なのだろうか。
ほかにもうちょっと納得できる説はあるかしら。

全体として、この本が最初に書かれたのは20年近く前だし、私が読んだ文庫版も出てから15年経つので、その間の研究でどう変わったかも知りたいですね。

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『奇想天外だから史実――天神伝承を読み解く』

小説以外の本だと、どうしても読むのに時間がかかってしまいますね。
内容を咀嚼するのが、エンタメよりも難しいというのもあるんだけれども、ページをめくるモチベーションがなかなか続かないというのもあります。たとえどんなに興味あるテーマの本でも。

そんなわけで、タイトルに惹かれて買ったものの、読み終えるまでに2週間以上かかりました。

『奇想天外だから史実』という、これこそ奇想天外で逆説的なタイトルの意味は、本文中の言葉を引用するなら、
現代の私たちにとって理解しやすい伝承は、それだけ後世に改訂された可能性が高いのです。反対に、奇想天外で理解不能な伝承こそ古体を引きずっており、真実を宿している。
この視点に立って、天神伝承をテキストに、伝承を読み解くための方法論をレクチャーしてくれるのがこの本の趣旨なのだと思います。
もちろんその結果、天神伝承の伝えるメッセージは何かとか、伝承/信仰成立の経緯も知れるけれども、そこの部分はちょっと飛躍が多かったり裏づけが微妙だったりするので。その点をメインで書いているもっと専門的な本を読んでみたい。

そんな感じで、文章の雰囲気的には、大学の教養科目の講義って感じです。専門的知識に基づいているのだろうけれども、平易な言葉で、知識のない人にもわかりやすく書かれている。史料も現代語訳されてるし。研究とは何かという方法論を教えるのが主で、脱線なんかもして……ってあたりがすごく授業っぽい気がします。


方法論以外の部分。
・第一章 大阪天満宮の「七本松伝承」
 「七本松伝承」の主要部は「大将軍社の前に七本松が生えた」こと。大阪天満宮も北野天満宮も、道饗祭の故地に祀られた大将軍社に隣接して創祀された。大将軍の神は金星の神格化だが、疫病の神でもある。
 巨大都市平安京では疫病が恐れられ、従来の神よりも強力な〈カミ〉を必要とした。そこで、すでに疫病退散の神格をもっていた大将軍社の星辰信仰をベースに、道真を新たな〈カミ〉として祀った。「天満大自在天神」の神号も、天に満ちる星を意味する。
 新たな〈カミ〉は旧来の神祇信仰へのアンチテーゼとしてつくられたため、平安京の植生の変化に伴い照葉樹林でなく針葉樹林の松が象徴とされた。
・第二章 飛梅伝承と渡唐天神伝承
 飛梅伝承は『拾遺和歌集』『後撰集』に載った「東風吹かば~」「桜花~」の歌を取り込み、12世紀末ごろまでに安楽寺で生まれた。飛ぶ梅と飛ばない桜の齟齬を解決するため、室町末期には「飛梅枯桜追松」伝承に発展する。その背景には松を象徴にもつ北野天満宮と太宰府安楽寺(太宰府は古来から梅で有名)の相剋がある。北野=天神御霊信仰・山門派・藤原氏/太宰府=菅原道真信仰・寺門派・菅原氏。
 渡唐天神伝承は新宗派の禅宗(臨済宗)による正当性獲得のために作られた。伝承に「梅」の要素を取り入れることで、禅宗と天神信仰の繋がりを象徴させた。作者は道真の子孫でもある鉄牛円心。
 飛梅の飛んだ方向と渡唐天神の飛んだ方向はどちらも同じ西方。天神が取り込んだ大将軍神も西方の神。伝承作者によるイメージの利用。
・第三章 天神信仰と鶏・牛・柘榴
 ・道明寺鶏鳴説話
  「鶏飼わず伝承」は日本各地に伝えられるが、特に菅原道真と深く結びつく。境界性をもつ鶏は不吉な鳥だった。土師氏は鶏を鳴かせて葬地を選定する呪術を行い、その影響は浄瑠璃『菅原伝授手習鑑』にもみられる。また、平安時代には雷神は鶏身と考えられていた。
 ・神牛伝承
  殺牛祭神信仰、雷神と牛の緊密な結合。雷神を通して天神は牛と結びついた。疫病を祓う「土牛童子」との関係。童子は小さ子神としての天神。
 ・柘榴天神伝承
  延暦寺の北野天満宮に対する優位を示す説話。北野天満宮を崇敬していた足利将軍家の盛衰も能に表された伝承に影響。柘榴ではなく海石榴(油)の読み違えでは。

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つづきはこちら

長くなったので感想などは以下に。
・偶然とか加上についての説明が興味深かった。何がそうなのか見極めが難しそう。

・新たな疫神の需要がまずあって、そこに道真の怨霊信仰が習合した、という過程は納得できた。けど、じゃあなぜ道真?という疑問がある。ただ単にその時期に怨霊になったという偶然?

・北野と太宰府の性格の違いも、言われてみるとその通りなんだけれども、今までもやもやしていたものが言語化されてようやくわかった感じ。

・それぞれの伝承についての説明が羅列的なので、もっと丁寧に論理的繋がりを説明してほしい。イメージとしてはわかるけれども、うまく消化できない。

・なんとなく、星辰信仰との習合といわれると身構えてしまう。トンデモっぽいのも多いから。
確かに大将軍八神社は北野天満宮のすぐ傍にあるし、疫神として習合関係にあるのは理解できるけれども。

・「天満大自在天神」の神号について
天満=星はいいとして、「大自在」の解釈に疑問が残る。平安時代には星の運行の規則性はとっくに理解されていた気がするので、星の運行を「自在」というふうに言うかな?って。

・「桜は枯れた」というやつ、高田崇史的解釈(桜=藤原氏)するとこれもまた呪いかなとなんとなく楽しい気分になりますね。

・渡唐天神伝承の作者の辺りも、伝衣塔は確からしいけれども、「道真の子孫で円爾の弟子でもあるから」という理由は状況証拠でしかなさそうだなぁと思ってしまいます。

・鶏のイメージの転換はいつごろからなのだろうか。というか、いつから食べていたのかと、それ以前はどのくらいの密度で飼われていたのかが気になる。
あと、道真と鶏の関係が深いからといってそこでなぜ鶏を嫌う方向の話になるかがあまりよくわからなかった。雷神が鶏身ならむしろ祀るのではないか。だから、そもそも鶏は嫌われていて、そこに「偶然」土師氏の末裔で雷神である道真と伝承が結びついたのだろうけれども。なんとなくすっきりしない。

・鶏は鳴き声から雷神と結びついたらしいけれども、牛はどうして雷神と結びついたのだろう。なぜ供御に選ばれたのか。農耕に使うから?
古代信仰における動物の「意味」が気になる。

・さまざまなイメージや記憶がより合わさって信仰/伝承が形成されるというのは何というかそうなんだろうな。ひとつのわかりやすい答えばかり気になってしまうけれども、いろいろな方向から光を当てた傍証の積み重ねもこの分野では有効なのだろう。でも、論証がそれだけだとやっぱり消化不良なところもある。物語という意味ではそういうモチーフの作り方が使えそうだなと思います。

・柘榴でなく海石榴ってのは、まさかそんなと思いつつ、ありうるかもしれない誤読。発想がおもしろい。
個人的には柘榴といえば鬼子母神と関連付けたくなるのだけれども……。実際にはその説話もいつから受容されていたのか知れたものじゃないからあれだけれども。

・しだら神上洛事件や道賢上人冥土記をどのように読み解くのかにも興味があります。基本は校訂によってメインの要素を探っていくことからなのかしら。

・学部生の頃に読んでいたら、卒論に関して違うアプローチもできたかもなぁ。

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『江戸の妖怪革命』

香川雅信著。角川ソフィア文庫版を読みました。
すごくおもしろかった。というか、興味深かった?博論とかを下敷きにしてるらしいので若干学術よりの内容で、そもそもアルケオロジーって何ってところから難しかったので読むのは時間かかったのですが。
この著者の方のいる兵庫県立博物館で今年妖怪造形展やってたのよね。荒井良の妖怪張り子とかも出てたらしくてちょっと行きたかったけど、兵庫は遠くて。

要旨としては、
江戸時代(18世紀後半)において、妖怪は中世以前の民俗社会のリアリティから切り離され、「表象」化=キャラクター化され、人間のコントロールしうるものとなった。妖怪は「ない」けれども、それじゃつまらないから「ある」ことにして楽しもう、という態度が近世における妖怪観だった。この時代に転換点があった理由として、貨幣経済の発達により神霊が絶対的贈与者でなくなったことがあげられる。
近代になると、それ以前に絶対的存在とされていた「人間」そのものが不安定な内面(「神経」「催眠術」「心霊」による)をもつものと認識され、妖怪は人間自身にはコントロールできない「内面」の働きによって「見てしまう」ものとなり、再びリアリティを得た。

まず、なんとなくのイメージとして近世以前=妖怪にリアリティがあった/近代以降=合理的思考によって妖怪が否定されたという認識があったので、それを覆されたのがおもしろかった。
既に江戸時代にも当時なりの合理的解釈で妖怪の「種明かし」が行われていて、円了の「妖怪学」はその延長にすぎない、というのが。
いわれてみたら石燕みたいなパロディ的キャラクター的妖怪はリアリティとは無縁の産物ではあるんだけれども。
そうはいっても都市ではなく地方ではまだリアリティが共有されてたのでは、ということも思わなくもないけど。でもそれも理想主義なのかなー。それこそ円了が妖怪を否定しようとしたからには、明治時代初期には「迷信」を信じる人たちもいたのは確かなんだけれども。
18世紀後半当時の地方における書籍/情報流通はどういうレベルだったのかとかも気になる。

でも、江戸時代の書物で妖怪が否定されていても、狐狸が化かすことについてはまだリアリティが温存されていたり、現代においては妖怪は否定していても幽霊に対しては恐怖するというのはなんとなくおもしろい。
対象が「自然」であれ「人間」であれ、わからないものに対して畏れを抱くのは時代が変わっても変わらないんだなぁと思うと、人間に対して愛おしさみたいなものを感じる。

明治時代の「神経」によって幽霊を出現させる物語、芳年や円朝の最期も含めて時代の変化に感傷的になってしまう。
それはそれとして、読んでいてもいまいち『真景累ヶ淵』や『木間星箱根鹿笛』と『東海道四谷怪談』の幽霊観の違いがよく分からなかった。おどろおどろしい演出の有無や、たぶん演出や物語の上で、その幽霊を認識しうるのは誰かということが大きな違いなんだろうけど。実際に見てみたいですね。

妖怪は「ない」けれども、それじゃつまらないから「ある」ことにして楽しもう、という妖怪観だったり、第二部で紹介されている妖怪手品の数々に、巷説を思い出しました。
まぁでも巷説のは手品ではなく、むしろ「語り(=『騙り』によって保障され」る「曖昧かつ中間的な領域」に属するものとして物語内では受け取られているものだと思いますが。
そういう連想が働いたのも、この辺りの説明で呑馬術で評判を読んだ塩売長次郎にちらっと言及されていたのもあるのかもしれない。
まぁ参考文献に京極夏彦の名前あるしね。巷説ではないけど。

参考文献といえば、そこで紹介されてた本もいろいろと興味ひかれるもの多いので追々読んでいきたいんだけど、ときどき不思議なものがあった。『ニューロマンサー』とか(未読)。泡坂妻夫が江戸奇術の解説してる本は、そんなのあるんだって思いました。

妖怪図鑑が、その時代に流行った見立て絵本や番付、開帳、名所図会なんかと同じく博物学的思考/嗜好の所産というのも興味深い点でした。
江戸時代の博物学についてももう少し知りたい。
あとその頃行われた「宝合」という遊びが楽しそうなのでやってみたい。牽強付会の物産会。
パロディ的な妖怪図鑑、その系譜をひいているのが妖怪ウォッチなんだろうなぁとさんざん言い尽くされていそうなことなども考えたり。この本が書かれたのは2005年なので、ポケモンは現代の妖怪的なものとして出てきていても妖怪ウォッチには言及されてないんですよね。

現代との対比でいうと、18世紀後半の「表象空間」――さまざまなメディアによって形成された引用と参照のネットワーク――で独自の生成・発展を遂げていき、「化物らしさ」(表象としてのリアリティ)が確立されていくことが、二次創作とかでキャラクターの設定が付加されていって原作で描かれている以上のそのキャラクターらしさが生まれていく感じと対応するかなぁ、と。

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