今年の夏に実家に帰省した時の新幹線で、フリーペーパーに載っていた「荒俣宏妖怪探偵団」という企画をおもしろく読みました。特に、古生物学者の人がその観点から妖怪とされたものを同定しようとしているのが興味深かった。
で、その後、新書になってるんじゃんと気づいて読んだ次第です。
江戸時代の古文献を古生物学の視点から”科学書”として読み解くという試みの本。
その試み自体はすごく興味深いです。
でも提示される解釈は正直あやしいというか、「妖怪」とされたものを解体するには、生物学的な観点だけじゃ不十分ではないかと思いました。たとえば黄表紙の中で洒落や言葉遊びを取り入れたり、ほかの宗教的な事物と習合していたりするので。
とはいえ、それらの解釈を著者自身が絶対的に信じているわけではなく、これをきっかけに議論が起きることこそが本望というのでは、こういう反論をするのも術中にはまっている感じがする。
冒頭で導入として、「鬼になぜ角がついてしまったのか」という話があったのですが。
生物学的には、角をもつ生き物は草食動物だという指摘には、言われて見れば確かになるほどと思った。
でも、ではなぜ鬼に角がついてしまったかって、いろいろ言ってるけど図1に引用している『画図百鬼夜行』の鬼の絵に書いてあるじゃん! 鬼門が丑寅だから牛の角に虎皮って言ってるじゃん! と思ってしまって。
だから、鬼に角があるのは牛の角だし、牛頭邪鬼も牛の頭なわけで、そこを説明しないままに角=悪者のイメージ、と話を進めていってしまうのはフェアじゃないという感覚が拭えなかった。
羊や山羊の角がついているバフォメットとかにしたって、供儀としてのその動物だとか。本書でも触れられていたように、異教の文化に対する解釈の仕方だとか。そういうものが総合的に絡んできているはず。
第三章で言っているように、「生物の基礎ルールを知った上で、どうフィクションとしてつじつまを合わせるか」という話にするとしても、フィクションでその必要はあるのだろうかみたいなことを思ってしまいました。ファンタジー世界ではその限りではないでいいんじゃないみたいな。
でもファンタジーじゃがいも問題のように、気になる人は細部まで気になるのだろうな……。
鵺=レッサーパンダ説、去年ぐらいに「ムー」の広告で見てすごくインパクトがあったのですが、それもこの人だったのかと驚いた。
思っていたよりも説としてちゃんとしていたし、レッサーパンダ化石が日本で出土していたことも初めて知りましたが、それが平安時代までいたかというとやっぱり微妙ですよね。
ヤマタノオロチが洪水でなく火山だという説は不勉強ながら初めて知ったのですが、それはわりと平仄が合う感じがしました。
一つ目妖怪がゾウやイルカというのも、おもしろい。
化石だけ見ると確かにそう見えるのか、って。
もちろん、それがすべてそうではないのだろうけれども。
全体的にこの本は、もっと根拠を見せてほしいというところで深く掘り下げないで、軽い話をするほうにページを割いていたような気がしてちょっと微妙でした。
もっと本気でやってほしかった(?)
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