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- 2025/03/16 [PR]
- 2017/08/09 『宇宙探偵 マグナス・リドルフ』
- 2017/07/28 『パーフェクトフレンド』
- 2017/07/26 『バチカン奇跡調査官 闇の黄金』
- 2017/07/22 『盤上の夜』
- 2017/07/08 『know』(と、「正解するカド」)
『宇宙探偵 マグナス・リドルフ』
『街角の書店』に載っていた「方舟」書いた人の連作短編集だよと言われて読んでみました。
宇宙探偵……と題していますが、作中ではもっぱら「トラブルシューター」と称されるマグナス・リドルフが宇宙を舞台に様々な問題を解決し、しっちゃかめっちゃかにするSF。
一応ミステリっぽいけど、厳密なやつではない感じです。
ありとあらゆる異星人が出てきて、人型に近いのも虫っぽいのも魚や植物なんかもいるのですが、その行動様式や文化が(ミステリ的には)謎を解く鍵になっているという話が多くて、その部分がすごくおもしろかった。
たぶんそれぞれの生物や星の様子なんかはジャック・ヴァンスのオリジナルだと思うのだけれども、異星人描写がまずおもしろい。よくこんなにたくさん考えつくなっていう見た目や性質。
異星人自体の習俗は、そこまで目新しいものでもなくて途中まで読めば十分推測つくのもあるんだけど、古いし既にオーソドックスになってしまったのかなという気がする。あと、どうしてそういう性質をしているかの進化の話とかはないのもちょっと寂しかった。短編なので仕方ないけど。
でも異星人の異星人らしさみたいなものが、ちゃんと物語に関わってくるから楽しい。
「とどめの一撃」がすごく好きです。
舞台設定というか、作中の年代や宇宙で人の行動範囲はどのくらい広がってるとか、その背景にあるはずの技術なんかの説明はほとんどなくて、SFってそういう部分の説明が好きそうな偏見があったのでちょっと新鮮でした。
これこそ、古いからかもしれないし短編だからかもしれないが。
というか、当たり前だけど人によるか。
そういうのの説明がないので、はじめはちょっととっつきにくいかなと思ったんですが、だるくなくていいです。
人の活動できる宇宙の広さや、星や異星人がどのくらいいるかはある程度設定があるのだろうと思うけど。出てこないので考えなくていいので楽。
そして特筆すべきはマグナス・リドルフのキャラクター!
宇宙探偵でトラブルシューターではあるけど、むしろトラブルメーカーっていうか。詐欺師じゃん!
悪人も依頼人も、偶々行き会っただけのいけすかない人間もまとめてひどい目に遭うのが痛快でもあり、ときどきかわいそうにもなる。
金儲けが好きで、よくカモられるけど百倍以上にして返すのとか。嫌がらせをしたり、状況をひっかきまわしたりするけど、あまりに無邪気。子供が虫を殺したり残虐なふるまいをするのに似たものを感じます。
悪徳探偵というには、悪をしようとしてそうしているわけではない感じ。かといって百パーセント無邪気ではなく、普通に嫌がらせしようとする意識はあるから、その結果が大惨事なだけで。
この辺の意地の悪さは短編の「方舟」にも通じるものがあるかなー。
あまりこういう感じキャラクタが主人公の話は読んだことがない(と思う)ので、楽しかったです。
でも続けて読むとわりとお腹いっぱいになるね。
各短編の扉の裏にマグナス・リドルフの言葉の引用(引用じゃない)がエピグラフとして入っているのだけど、ときどきどこかで聞いたようなことを言っていてにやっとする。
各短編感想
「ココドの戦士」
ハチに似た戦士が各部族の〈塁〉ごとに戦いを続ける星で、それを対象にした賭けを行うホテルをつぶそうとする話。
このシリーズの(あるいは著者の)代表作らしいんですが、他の作品の方が私は好きだったかな。
ココド先住民たちの習性はすごくおもしろいし、それを利用していけすかない人間たちに泡を食わせるのも楽しい。けど、結局利用されてるやんってのが拭えず。
あと、それぞれの〈塁〉の名前が綺麗。〈薔薇の坂の塁〉とか〈貝の浜の塁〉とか。
「禁断のマッキンチ」
宇宙のあちこちからはみ出し者が集まり、異種族のるつぼとなりながらも地球式民主政治が行われている惑星で、横領を行う悪党マッキンチ。マッキンチについて調べた者は次々と殺されてしまう状況で、マグナス・リドルフが真相究明を依頼される。
容疑者たちに話を聞いてまわり、関係者を全員集めて「さて」と言うタイプの典型的なミステリ。……あ、見返したけど別に「さて」とは言ってませんでした。訂正。
典型的なパターンではあるけど、関係者のほとんどが異星人で、しかもそれぞれ別の種族で異なる価値観を持っている。その価値観の違いがポイントになってくるわけなんだけど、異星人の価値観なんて知るわけないので、まぁフェアじゃなさはありますね。
でも読んでいて楽しい。
「蛩鬼乱舞」
マグナス・リドルフは格安で農地を手に入れたが、その農地には毎夜「蛩鬼」という謎の生物が襲ってきて、作物を食い尽くしてしまう。
この作品は、オチが不可解でした。
なんでシチューじゃなくなったんだろう。使用人が黒幕?? と頭を悩ませたけどよく分からない。
蛩鬼との対決シーンも、アクションっぽいんだけど、うまく想像ができず。
解決方法はおもしろかったのですが。
「盗人の王」
マグナス・リドルフは盗人たちの星を訪れる。その星ではありとあらゆるものが盗まれ、最も盗んだ者が王となる独特のヒエラルキーが存在していた。
これも、読んでいて楽しい。
マグナス・リドルフが盗人の王になる展開は、そりゃそうなるよねという感じではありますが。
途中で出てくるニュースは伏線だろうと思いきや、まさかこう使われるとは。
泥棒種族メン=メンが、純朴な感じでかわいい。泥棒だけど。メリーゴーランドで喜んでるのが。
「馨しき保養地」
宇宙リゾートの経営者は、次々とリゾート地を襲うドラゴンその他の現住生物に困り果て、マグナス・リドルフに依頼する。
これまでの短編はマグナス・リドルフ視点で書かれてきてたんですが、この短編はリゾート経営者の片割れ視点。こいつが明らかに馬鹿で、マグナス・リドルフにいいようにされる末路がはじめから予想できるほど。
この馬鹿が確信していたものじゃなくてあっちだろうなっていうのは推測がついていたので、そこ自体には魅かれなかった。
問題解決後の、依頼人たちに対する仕打ちのひどさの方がえげつなくておもしろい。お前はそういう奴だよな。
「とどめの一撃」
〈ハブ〉と呼ばれる気密ドームの中で起きた殺人事件について調査する話。
いちおうクローズドサークルもの。
だけど、マグナス・リドルフの手法は変わらず、集まった容疑者たちの種族的・文化的特徴を調査していく。その調査過程が丁寧に書かれているのと、動機がものすごく好きです。狂人の論理っていうか、別に狂っているわけじゃないけど、その人にとってはそれが当然なんだみたいな。種族の特性とかについてずっと話しているから、この結末でも受け入れられる構成も巧い。
まあ、容疑者のうちの何人かは、本当にそれで犯人じゃないってことにしちゃっていいの?って思わないでもなかったですが。服の色とか何それって感じで。
オチのブラックさも良かったです。
「ユダのサーディン」
友人からの求めで、マグナス・リドルフはオイル・サーディンの異物混入について調べるために宇宙缶詰工場に潜入した。工場で処理されるサーディンたちは不可解な行動をしていて……。
工場のライン工になって文句を言うマグナス・リドルフが可笑しかった。利害関係のない友達いたんだねと思ったら、最終的にその人にまで人を食ったような解決方法を提示していて、読んでいるこっちが妙に焦りました。
この短編もかなり好きでした。
工場でとられていた方式自体がSF的で興味深かった。それに、サーディンとの通じているんだかいないんだか分からない意思疎通がおもしろかったです。
そして驚愕のオチ。サーディン的にはそれでOKなんだろうか。
「暗黒神降臨」
採鉱を行っている岩だらけの惑星では、4つあるオアシスのうち2つで周期的に作業員全員が姿を消してしまう異常事態が起こっていた。
これは、マグナス・リドルフの邪悪さが最もひどい結果をもたらした話でした。
真相には驚いた。
惑星の寂寥とした様子の描写が素敵。
原題の出落ち感がすごい。うん、CとDでは死ぬんだよね。
「呪われた鉱脈」
鉱脈Bでは作業員たちが次々と殺される事件が続き、月に30人以上が犠牲になっていた。マグナス・リドルフは依頼を受け殺人犯と対決する。
来た途端に真相を看破するマグナス・リドルフが探偵っぽい。(ご都合主義っぽさもあるが)
殺人犯の正体自体は、そういうのあるよねって感じで驚きはそこまでなかったんですけど、解決の仕方がこの人らしい。
とはいえ、第一作目だそうで、ほかの作品よりはまともそうでしたね。
「数学を少々」
マグナス・リドルフは持ち前の数学的センスを発揮し、カジノでぼろ儲けをする一方、カジノオーナーの犯罪のアリバイトリックを暴こうとする。
えっと、後半のアリバイトリック(ですらないけど)に関しては、それ最適化されてなかったの……?みたいな疑問が残る。
だから作者が黒歴史にしたがったのかしら。
文体も、ほかのとはちょっと違う感じで、キャラクターとの距離が遠い印象でした。
煌びやかなカジノの描写や、ロランゴという名前のガラスの球体に入った水とカラーボールを攪拌して並び順を当てるカジノ・ゲームが美しくて良かったです。
宇宙探偵……と題していますが、作中ではもっぱら「トラブルシューター」と称されるマグナス・リドルフが宇宙を舞台に様々な問題を解決し、しっちゃかめっちゃかにするSF。
一応ミステリっぽいけど、厳密なやつではない感じです。
ありとあらゆる異星人が出てきて、人型に近いのも虫っぽいのも魚や植物なんかもいるのですが、その行動様式や文化が(ミステリ的には)謎を解く鍵になっているという話が多くて、その部分がすごくおもしろかった。
たぶんそれぞれの生物や星の様子なんかはジャック・ヴァンスのオリジナルだと思うのだけれども、異星人描写がまずおもしろい。よくこんなにたくさん考えつくなっていう見た目や性質。
異星人自体の習俗は、そこまで目新しいものでもなくて途中まで読めば十分推測つくのもあるんだけど、古いし既にオーソドックスになってしまったのかなという気がする。あと、どうしてそういう性質をしているかの進化の話とかはないのもちょっと寂しかった。短編なので仕方ないけど。
でも異星人の異星人らしさみたいなものが、ちゃんと物語に関わってくるから楽しい。
「とどめの一撃」がすごく好きです。
舞台設定というか、作中の年代や宇宙で人の行動範囲はどのくらい広がってるとか、その背景にあるはずの技術なんかの説明はほとんどなくて、SFってそういう部分の説明が好きそうな偏見があったのでちょっと新鮮でした。
これこそ、古いからかもしれないし短編だからかもしれないが。
というか、当たり前だけど人によるか。
そういうのの説明がないので、はじめはちょっととっつきにくいかなと思ったんですが、だるくなくていいです。
人の活動できる宇宙の広さや、星や異星人がどのくらいいるかはある程度設定があるのだろうと思うけど。出てこないので考えなくていいので楽。
そして特筆すべきはマグナス・リドルフのキャラクター!
宇宙探偵でトラブルシューターではあるけど、むしろトラブルメーカーっていうか。詐欺師じゃん!
悪人も依頼人も、偶々行き会っただけのいけすかない人間もまとめてひどい目に遭うのが痛快でもあり、ときどきかわいそうにもなる。
金儲けが好きで、よくカモられるけど百倍以上にして返すのとか。嫌がらせをしたり、状況をひっかきまわしたりするけど、あまりに無邪気。子供が虫を殺したり残虐なふるまいをするのに似たものを感じます。
悪徳探偵というには、悪をしようとしてそうしているわけではない感じ。かといって百パーセント無邪気ではなく、普通に嫌がらせしようとする意識はあるから、その結果が大惨事なだけで。
この辺の意地の悪さは短編の「方舟」にも通じるものがあるかなー。
あまりこういう感じキャラクタが主人公の話は読んだことがない(と思う)ので、楽しかったです。
でも続けて読むとわりとお腹いっぱいになるね。
各短編の扉の裏にマグナス・リドルフの言葉の引用(引用じゃない)がエピグラフとして入っているのだけど、ときどきどこかで聞いたようなことを言っていてにやっとする。
各短編感想
「ココドの戦士」
ハチに似た戦士が各部族の〈塁〉ごとに戦いを続ける星で、それを対象にした賭けを行うホテルをつぶそうとする話。
このシリーズの(あるいは著者の)代表作らしいんですが、他の作品の方が私は好きだったかな。
ココド先住民たちの習性はすごくおもしろいし、それを利用していけすかない人間たちに泡を食わせるのも楽しい。けど、結局利用されてるやんってのが拭えず。
あと、それぞれの〈塁〉の名前が綺麗。〈薔薇の坂の塁〉とか〈貝の浜の塁〉とか。
「禁断のマッキンチ」
宇宙のあちこちからはみ出し者が集まり、異種族のるつぼとなりながらも地球式民主政治が行われている惑星で、横領を行う悪党マッキンチ。マッキンチについて調べた者は次々と殺されてしまう状況で、マグナス・リドルフが真相究明を依頼される。
容疑者たちに話を聞いてまわり、関係者を全員集めて「さて」と言うタイプの典型的なミステリ。……あ、見返したけど別に「さて」とは言ってませんでした。訂正。
典型的なパターンではあるけど、関係者のほとんどが異星人で、しかもそれぞれ別の種族で異なる価値観を持っている。その価値観の違いがポイントになってくるわけなんだけど、異星人の価値観なんて知るわけないので、まぁフェアじゃなさはありますね。
でも読んでいて楽しい。
「蛩鬼乱舞」
マグナス・リドルフは格安で農地を手に入れたが、その農地には毎夜「蛩鬼」という謎の生物が襲ってきて、作物を食い尽くしてしまう。
この作品は、オチが不可解でした。
なんでシチューじゃなくなったんだろう。使用人が黒幕?? と頭を悩ませたけどよく分からない。
蛩鬼との対決シーンも、アクションっぽいんだけど、うまく想像ができず。
解決方法はおもしろかったのですが。
「盗人の王」
マグナス・リドルフは盗人たちの星を訪れる。その星ではありとあらゆるものが盗まれ、最も盗んだ者が王となる独特のヒエラルキーが存在していた。
これも、読んでいて楽しい。
マグナス・リドルフが盗人の王になる展開は、そりゃそうなるよねという感じではありますが。
途中で出てくるニュースは伏線だろうと思いきや、まさかこう使われるとは。
泥棒種族メン=メンが、純朴な感じでかわいい。泥棒だけど。メリーゴーランドで喜んでるのが。
「馨しき保養地」
宇宙リゾートの経営者は、次々とリゾート地を襲うドラゴンその他の現住生物に困り果て、マグナス・リドルフに依頼する。
これまでの短編はマグナス・リドルフ視点で書かれてきてたんですが、この短編はリゾート経営者の片割れ視点。こいつが明らかに馬鹿で、マグナス・リドルフにいいようにされる末路がはじめから予想できるほど。
この馬鹿が確信していたものじゃなくてあっちだろうなっていうのは推測がついていたので、そこ自体には魅かれなかった。
問題解決後の、依頼人たちに対する仕打ちのひどさの方がえげつなくておもしろい。お前はそういう奴だよな。
「とどめの一撃」
〈ハブ〉と呼ばれる気密ドームの中で起きた殺人事件について調査する話。
いちおうクローズドサークルもの。
だけど、マグナス・リドルフの手法は変わらず、集まった容疑者たちの種族的・文化的特徴を調査していく。その調査過程が丁寧に書かれているのと、動機がものすごく好きです。狂人の論理っていうか、別に狂っているわけじゃないけど、その人にとってはそれが当然なんだみたいな。種族の特性とかについてずっと話しているから、この結末でも受け入れられる構成も巧い。
まあ、容疑者のうちの何人かは、本当にそれで犯人じゃないってことにしちゃっていいの?って思わないでもなかったですが。服の色とか何それって感じで。
オチのブラックさも良かったです。
「ユダのサーディン」
友人からの求めで、マグナス・リドルフはオイル・サーディンの異物混入について調べるために宇宙缶詰工場に潜入した。工場で処理されるサーディンたちは不可解な行動をしていて……。
工場のライン工になって文句を言うマグナス・リドルフが可笑しかった。利害関係のない友達いたんだねと思ったら、最終的にその人にまで人を食ったような解決方法を提示していて、読んでいるこっちが妙に焦りました。
この短編もかなり好きでした。
工場でとられていた方式自体がSF的で興味深かった。それに、サーディンとの通じているんだかいないんだか分からない意思疎通がおもしろかったです。
そして驚愕のオチ。サーディン的にはそれでOKなんだろうか。
「暗黒神降臨」
採鉱を行っている岩だらけの惑星では、4つあるオアシスのうち2つで周期的に作業員全員が姿を消してしまう異常事態が起こっていた。
これは、マグナス・リドルフの邪悪さが最もひどい結果をもたらした話でした。
真相には驚いた。
惑星の寂寥とした様子の描写が素敵。
原題の出落ち感がすごい。うん、CとDでは死ぬんだよね。
「呪われた鉱脈」
鉱脈Bでは作業員たちが次々と殺される事件が続き、月に30人以上が犠牲になっていた。マグナス・リドルフは依頼を受け殺人犯と対決する。
来た途端に真相を看破するマグナス・リドルフが探偵っぽい。(ご都合主義っぽさもあるが)
殺人犯の正体自体は、そういうのあるよねって感じで驚きはそこまでなかったんですけど、解決の仕方がこの人らしい。
とはいえ、第一作目だそうで、ほかの作品よりはまともそうでしたね。
「数学を少々」
マグナス・リドルフは持ち前の数学的センスを発揮し、カジノでぼろ儲けをする一方、カジノオーナーの犯罪のアリバイトリックを暴こうとする。
えっと、後半のアリバイトリック(ですらないけど)に関しては、それ最適化されてなかったの……?みたいな疑問が残る。
だから作者が黒歴史にしたがったのかしら。
文体も、ほかのとはちょっと違う感じで、キャラクターとの距離が遠い印象でした。
煌びやかなカジノの描写や、ロランゴという名前のガラスの球体に入った水とカラーボールを攪拌して並び順を当てるカジノ・ゲームが美しくて良かったです。
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『パーフェクトフレンド』
野崎まどチャレンジ。この間読んだ『know』もあまり好きではなかったから、かなり懐疑的だったんですけど。
素直におもしろかったです。
あらすじ。
小学4年生の理桜は、4年連続クラス委員を努める頭のいい少女。彼女は担任の依頼で、同じクラスになった不登校の少女さなかを訪ねる。さなかは大学までのカリキュラムを終え、博士号を取得している天才少女だった。小学校に行く必要を感じないさなかに、理桜は"友達の素晴らしさ"を説く。さなかは、「友達とは何か」「なぜ友達が必要か」「友達は作れるか」を知るために、学校に行くことを決意する。
うん。野崎まどは天才少女が好きなのかなと思うんだけど、私は別に好きじゃないんですよね。
私が好きじゃないのが、「野崎まどの書く天才少女」なのか「天才少女一般」に拡大できるのかあるいは「天才」なのか「少女」なのかは判然としないですが。
ともかく、そこに温度差は生まれていた。
でも一方で、少し頭がいいぐらいの人が本物の天才と出逢って足掻く物語は好きなのです。
だから理桜が好き。
葛藤しつつ苛立ちつつ、それでもいつの間にか友達と思ってしまっていたところとか、彼我の差を悟れる程度には頭がいいところとか。
Ⅴ章の理桜がすごく良くて、だから直後の展開が突然で。え?なんで?何が起こったの?って混乱した。きっとそうしてショックを与えるために、Ⅴ章の理桜がとても良かったんだと思うと、作者に対して理不尽な怒りを覚える。
小学生女子の日常の雰囲気も良かったです。ほのぼのと楽しい。
不思議スポットを巡ったり、お泊り会をしたり。
ボケとツッコミというか、地の文も含めてちょっとスベってる感もあったけど、小学生だしで納得してしまう(本当に?)
ところでどうでもいいのだけれど、名前とキャラクター的に、やややが出てくるたびにしゅごキャラが頭に浮かぶ。
で、そんな小学生らしい日常を送っている間にもさなかは友達とは何かについて考えていたわけですが。
「友達とは何か」を方程式で表そうとする発想はおもしろいのかもしれない。かもしれないというのは、私自身が数学苦手なので方程式と言われてもみたいな気分になっちゃうのと、方程式自体は出てこないからなんか肩透かし感がある。
中盤でさなかが語っていた「友達とは何か」、人類の効率を向上させるシステムというのは一面ではあると思うんです。でも、それは「友達」でなくても構わないというか。グループ化することで効率化するなら、そのグループを向上する社会集団の種類は問われないじゃないですか。「友達」でも「恋人」でも「家族」でも、単に学校でよくあったような「近くの人とグループを作る」でも社会生活の効率化は図れるのではないか。
と思ってしまった。
感情とか、個人の問題とか以前に。
後の方に出てくるもう一つの答えでも、帰納的な考え方をしているからかもしれないけど、ほかの社会集団ではなく友達でなくてはならない理由は分からないままだった気がする。
友達を観察して「友達とは何か」を考察する以上、ほかの社会集団ではない「友達」を定義することは難しいのかもしれないけど。対照実験も必要だよねぇ。
結果的にさなかは友達を作れて、豊かな人生を送ることになったから有耶無耶になったけど、そういう意味での「友達(ほかの社会集団からは差別化されたもの)」についての議論もほしかったです。
興味深かったのは、はじめに理桜が友達の素晴らしさを説いたときに、「理由は分からないけど、みんな友達がいるから友達は必要だ」というようなことを言ってたこと。私はここの理桜とさなかのやりとりに感動した。
具体的にはさなかの言った「科学的」という言葉。
つい勘違いしてしまうけれども、世界がまずあって、その構造を解き明かすのが科学なんですよね。
水がちょうど100℃で沸騰するのではなく、水が沸騰する温度を摂氏100℃と定義してる、みたいな。
なんか蒙が啓けたというか、そうだったと思い出したというか。
それを指摘してくれたのが良かったです。
Ⅵ章で語られる魔法のあり方や、魔法的な考え方による「友達とは何か」も面白かった。
納得できるかというと、こちらの答えにも納得できないんだけど。そういう考え方もあるのか、という新鮮さがおもしろい。
"無限"ってなんだろう。
この作品の、この「魔法」については魔法のままの方が好みだなって思いました。
魔法であるともないとも確定しない限り、無限の可能性を想像できる。なら私は(私も)魔法と想像していたい。
あ、分かった。
この小説は「友達とは何か」が主題ではないんだ。そこも大事なポイントだけど。
少女が、世界の見方を知る話なんだ。
たぶん本質はそっちだ。と思う。違うかも。
シンプルなテーマだけど、だからこそ普遍的だしおもしろい。
先程書いた、「方程式自体は出てこないからなんか肩透かし感がある」ということなんだけど、今まで読んだ野崎まど作品に感じていた不満のひとつはたぶんこれなのだと思います。
天才少女が何かすごいことをして、でもその「すごいこと」の肝心のところが書かれていないように感じる。
作中世界にはまってしまっているからこそ、どんなすごいことをするかを知りたいのに、その期待はずらされて、だからフラストレーションが溜まるのかもしれない。
アムリタを読んだときから、ぼんやりと思ってはいたんです。この本を評価するためにはメタレベルが違うのかもしれないって。うまく言語化できないんだけど。
もっとも、サンプル数3で何をいうかって感じがします。
ほかの作品も読むかなぁ。どうだろう。
野崎まどの良さは相変わらずよく分からないんだけど、『パーフェクトフレンド』はおもしろい小説でした。
素直におもしろかったです。
あらすじ。
小学4年生の理桜は、4年連続クラス委員を努める頭のいい少女。彼女は担任の依頼で、同じクラスになった不登校の少女さなかを訪ねる。さなかは大学までのカリキュラムを終え、博士号を取得している天才少女だった。小学校に行く必要を感じないさなかに、理桜は"友達の素晴らしさ"を説く。さなかは、「友達とは何か」「なぜ友達が必要か」「友達は作れるか」を知るために、学校に行くことを決意する。
うん。野崎まどは天才少女が好きなのかなと思うんだけど、私は別に好きじゃないんですよね。
私が好きじゃないのが、「野崎まどの書く天才少女」なのか「天才少女一般」に拡大できるのかあるいは「天才」なのか「少女」なのかは判然としないですが。
ともかく、そこに温度差は生まれていた。
でも一方で、少し頭がいいぐらいの人が本物の天才と出逢って足掻く物語は好きなのです。
だから理桜が好き。
葛藤しつつ苛立ちつつ、それでもいつの間にか友達と思ってしまっていたところとか、彼我の差を悟れる程度には頭がいいところとか。
Ⅴ章の理桜がすごく良くて、だから直後の展開が突然で。え?なんで?何が起こったの?って混乱した。きっとそうしてショックを与えるために、Ⅴ章の理桜がとても良かったんだと思うと、作者に対して理不尽な怒りを覚える。
小学生女子の日常の雰囲気も良かったです。ほのぼのと楽しい。
不思議スポットを巡ったり、お泊り会をしたり。
ボケとツッコミというか、地の文も含めてちょっとスベってる感もあったけど、小学生だしで納得してしまう(本当に?)
ところでどうでもいいのだけれど、名前とキャラクター的に、やややが出てくるたびにしゅごキャラが頭に浮かぶ。
で、そんな小学生らしい日常を送っている間にもさなかは友達とは何かについて考えていたわけですが。
「友達とは何か」を方程式で表そうとする発想はおもしろいのかもしれない。かもしれないというのは、私自身が数学苦手なので方程式と言われてもみたいな気分になっちゃうのと、方程式自体は出てこないからなんか肩透かし感がある。
中盤でさなかが語っていた「友達とは何か」、人類の効率を向上させるシステムというのは一面ではあると思うんです。でも、それは「友達」でなくても構わないというか。グループ化することで効率化するなら、そのグループを向上する社会集団の種類は問われないじゃないですか。「友達」でも「恋人」でも「家族」でも、単に学校でよくあったような「近くの人とグループを作る」でも社会生活の効率化は図れるのではないか。
と思ってしまった。
感情とか、個人の問題とか以前に。
後の方に出てくるもう一つの答えでも、帰納的な考え方をしているからかもしれないけど、ほかの社会集団ではなく友達でなくてはならない理由は分からないままだった気がする。
友達を観察して「友達とは何か」を考察する以上、ほかの社会集団ではない「友達」を定義することは難しいのかもしれないけど。対照実験も必要だよねぇ。
結果的にさなかは友達を作れて、豊かな人生を送ることになったから有耶無耶になったけど、そういう意味での「友達(ほかの社会集団からは差別化されたもの)」についての議論もほしかったです。
興味深かったのは、はじめに理桜が友達の素晴らしさを説いたときに、「理由は分からないけど、みんな友達がいるから友達は必要だ」というようなことを言ってたこと。私はここの理桜とさなかのやりとりに感動した。
具体的にはさなかの言った「科学的」という言葉。
つい勘違いしてしまうけれども、世界がまずあって、その構造を解き明かすのが科学なんですよね。
水がちょうど100℃で沸騰するのではなく、水が沸騰する温度を摂氏100℃と定義してる、みたいな。
なんか蒙が啓けたというか、そうだったと思い出したというか。
それを指摘してくれたのが良かったです。
Ⅵ章で語られる魔法のあり方や、魔法的な考え方による「友達とは何か」も面白かった。
納得できるかというと、こちらの答えにも納得できないんだけど。そういう考え方もあるのか、という新鮮さがおもしろい。
"無限"ってなんだろう。
この作品の、この「魔法」については魔法のままの方が好みだなって思いました。
魔法であるともないとも確定しない限り、無限の可能性を想像できる。なら私は(私も)魔法と想像していたい。
あ、分かった。
この小説は「友達とは何か」が主題ではないんだ。そこも大事なポイントだけど。
少女が、世界の見方を知る話なんだ。
たぶん本質はそっちだ。と思う。違うかも。
シンプルなテーマだけど、だからこそ普遍的だしおもしろい。
先程書いた、「方程式自体は出てこないからなんか肩透かし感がある」ということなんだけど、今まで読んだ野崎まど作品に感じていた不満のひとつはたぶんこれなのだと思います。
天才少女が何かすごいことをして、でもその「すごいこと」の肝心のところが書かれていないように感じる。
作中世界にはまってしまっているからこそ、どんなすごいことをするかを知りたいのに、その期待はずらされて、だからフラストレーションが溜まるのかもしれない。
アムリタを読んだときから、ぼんやりと思ってはいたんです。この本を評価するためにはメタレベルが違うのかもしれないって。うまく言語化できないんだけど。
もっとも、サンプル数3で何をいうかって感じがします。
ほかの作品も読むかなぁ。どうだろう。
野崎まどの良さは相変わらずよく分からないんだけど、『パーフェクトフレンド』はおもしろい小説でした。
『バチカン奇跡調査官 闇の黄金』
なんだかんだ言いながらも3巻まで読んでるので、それなりには好きなのだろうと思う。
むしろ、おもしろいところがあるからこそ、苦手な部分がもう少しどうにかなれば……と思うのかもしれません。
そういえばアニメも始まりましたね。展開めちゃくちゃ早くて、初見の人はついてこれるのかしらと老婆心を発動してます。
ところで1話冒頭のナレーションで、一緒に見ていた人(未読)が「設定が『その可能性はすでに考えた』みたい」と言ってたのでそのかのが気になってます。
ともかく、3巻。
あらすじはこんな感じです。
「首切り道化師」の伝説が残るイタリアの小村で、教会に角笛が鳴り響き虹色の光が現れる「奇跡」が起こり、平賀とロベルトは調査に訪れる。
すると、教会でアルビノの少年がまだらの道化師に首を切られ殺される事件が起こる。
不満がありつつも毎回読んでしまうのは、謎と解決が好きだからだと思うんです。一見すると、奇跡にしか思えない謎が合理的に説明されるおもしろさ。
一歩先の展開や謎の答えは読めても、違う事件が起こったり冒険したりするのでその先は純粋に楽しい。
今回も、民話や童謡に隠された謎を解き明かすのは個人的に好きな展開だし、おもしろかったです。
それらを作った人はどういう人物で、何のためにという謎は残りますが。
秘密として伏せながらも書き記すのは、単に「王様の耳はロバの耳」だけではなくて、Aさんには隠したいけどBさんには伝えたいみたいな事情もあると私は思うんだけど(だからそこが「人は秘密を閉じ込めてはおけないのさ」で終わってしまったのは物足りなさがあった)、これらの民話童謡に隠した暗号は、一体誰が誰に伝えようとしたものなんだろうというのが不思議でした。
というかそこをはっきりさせないと、物語の展開に都合の良いことが都合良く伝わっていただけになってしまう気がする。そうなると、自作自演に思えてしまって、途端に全て色褪せてしまう。
柘榴の暗示と、ソロモンの忠告の二つ目までは、教会の次の世代にも秘密の通路を教えるために有用だと思う。そしてまだらの道化師モチーフも、もともとあったイメージに重ねて村人たちが森に入らないようにする意図があったことが分かる。
三つ目の忠告だけが、平仄が合わない気がするんです。「死の間」から抜け出す方法だなんて、囚人たちを監督する立場の人にとっては必要ないのでは?
……。
と思ってたのですが、書きながら読み返してて気づいた。その鍵が「死の間」にあるだけで、帰り道の扉の開け方を示してるだけなんですね。
だったらやっぱり、後にこの教会に着任して囚人たちをも監督する司祭に託したメッセージとして理解できます。むしろそう作中で言ってほしかった。
2冊あったのは少し謎なんだけど、違ってる部分が重要だと気づかせるためなのかな。
目次に「アゾート」ってあったので、てっきりバラバラ死体が出てくるものだと期待していたら出てこなくて残念。普通に、元ネタの方でしたね。
バラバラ死体は与太話にせよ、森の中に辰砂があったこともあり、水銀という方の意味で重要なのかしら、たたらの鬼なのかしらとかも考えてたんだけど。
水銀鉱脈はあるというし、水銀は金の精製に使うから繋がるとは思うんだけど、そこのところもうちょっと説明あってもよかったかなと思いました。
そういう風にもっとモチーフを重ねてイメージをふくらませたらいいのにと思うことは他にもあった。イメージの伏線というか。たとえば地下世界の目印が柘榴だと、私なら軽率にペルセポネと重ね合わせたくなるんだけど。一応カソリックの神父だからギリシャ神話は使えないのかしら。
今作で良かったのは、平賀とロベルト両方がちゃんとそれぞれの専門知識を活かして活躍してたことです。ポンコツ感が少なかった。
前2作で、それぞれの専門分野を紹介してからの3作目だからなのかもしれませんが。
ところで最初1巻を読んだとき勘違いしてたけど、紹介文によれば「天才」なのは平賀だけで、ロベルトはただの「エキスパート」なんですね。
キャラクターの書き方については、もう慣れるしかないんだろうなぁ。
3巻まで読んだら情報量が増えて愛着持てるかなとちょっと思ってたんだけど、特に増えなかったですね。
相変わらずキャラが情報・設定でしかないように思えてしまう。物語を動かすためのコマでしかない感じがする。
ロベルトの方はまだ人間臭さがあるし2巻で過去分かったしで、人に見えるんだけど。
これまででもう一つ苦手だったポイントの、薀蓄の出し方は今回はかなり改善されていたと思います。
台詞で長々と喋ることはなくなって、地の文で説明するようになっていたので。
あと今回は特に、このために作られた民話(とはいえ既存の類話はありますが、フォークロアはそういうものですし。でも3つのオレンジと笛吹男はヨーロッパの物語だけど、最初のは落語の死神だよね?イタリアにもあるの?)に込められた謎を解いていたので、わざわざひけらかすまでもない薀蓄自体が少なかったような気がします。出し方以前に。
平賀担当部分も、もともと私は理系知識少ないからかもしれないけど、必要十分な説明でしたし。
「ソロモンの忠告」を平賀に暗誦させるのは必要なかったと思うけど。口頭での物語の語りなら暗誦ではなく話者らしさがほしかった。というのは求めすぎでしょうか。
ところで固有振動数というか、その周波数だったのは単なる偶然だったの?その解決で本当にいいの?えー。
キリスト像も、温度変化は単なる偶然に頼ってるのかというのに引っかかる。
空気中に粉が舞っていたなら、蝋燭の火でドカーンとかならないんでしょうか。そこまでの量ではないのかな。というかこれはさすがに思考が「アゾート」に引きずられてる気がします。
これから、ガルドウネとの対決がメインになっていくのでしょうか。
陰謀論はフィクションと弁えた上で楽しむのは好きなんですけど、ミステリめいたものとして読んでるので、以降はずっとガルドウネが黒幕みたいな展開はさすがに嫌なんですけど。まさかそんなことはないよね。
ビル捜査官が都合良くギリシャ語を知っていたのがちょっと怪しいんですけど、警察に属して油断させてるガルドウネ(あるいはほかの秘密組織)メンバーなのでは?
むしろ、おもしろいところがあるからこそ、苦手な部分がもう少しどうにかなれば……と思うのかもしれません。
そういえばアニメも始まりましたね。展開めちゃくちゃ早くて、初見の人はついてこれるのかしらと老婆心を発動してます。
ところで1話冒頭のナレーションで、一緒に見ていた人(未読)が「設定が『その可能性はすでに考えた』みたい」と言ってたのでそのかのが気になってます。
ともかく、3巻。
あらすじはこんな感じです。
「首切り道化師」の伝説が残るイタリアの小村で、教会に角笛が鳴り響き虹色の光が現れる「奇跡」が起こり、平賀とロベルトは調査に訪れる。
すると、教会でアルビノの少年がまだらの道化師に首を切られ殺される事件が起こる。
不満がありつつも毎回読んでしまうのは、謎と解決が好きだからだと思うんです。一見すると、奇跡にしか思えない謎が合理的に説明されるおもしろさ。
一歩先の展開や謎の答えは読めても、違う事件が起こったり冒険したりするのでその先は純粋に楽しい。
今回も、民話や童謡に隠された謎を解き明かすのは個人的に好きな展開だし、おもしろかったです。
それらを作った人はどういう人物で、何のためにという謎は残りますが。
秘密として伏せながらも書き記すのは、単に「王様の耳はロバの耳」だけではなくて、Aさんには隠したいけどBさんには伝えたいみたいな事情もあると私は思うんだけど(だからそこが「人は秘密を閉じ込めてはおけないのさ」で終わってしまったのは物足りなさがあった)、これらの民話童謡に隠した暗号は、一体誰が誰に伝えようとしたものなんだろうというのが不思議でした。
というかそこをはっきりさせないと、物語の展開に都合の良いことが都合良く伝わっていただけになってしまう気がする。そうなると、自作自演に思えてしまって、途端に全て色褪せてしまう。
柘榴の暗示と、ソロモンの忠告の二つ目までは、教会の次の世代にも秘密の通路を教えるために有用だと思う。そしてまだらの道化師モチーフも、もともとあったイメージに重ねて村人たちが森に入らないようにする意図があったことが分かる。
三つ目の忠告だけが、平仄が合わない気がするんです。「死の間」から抜け出す方法だなんて、囚人たちを監督する立場の人にとっては必要ないのでは?
……。
と思ってたのですが、書きながら読み返してて気づいた。その鍵が「死の間」にあるだけで、帰り道の扉の開け方を示してるだけなんですね。
だったらやっぱり、後にこの教会に着任して囚人たちをも監督する司祭に託したメッセージとして理解できます。むしろそう作中で言ってほしかった。
2冊あったのは少し謎なんだけど、違ってる部分が重要だと気づかせるためなのかな。
目次に「アゾート」ってあったので、てっきりバラバラ死体が出てくるものだと期待していたら出てこなくて残念。普通に、元ネタの方でしたね。
バラバラ死体は与太話にせよ、森の中に辰砂があったこともあり、水銀という方の意味で重要なのかしら、たたらの鬼なのかしらとかも考えてたんだけど。
水銀鉱脈はあるというし、水銀は金の精製に使うから繋がるとは思うんだけど、そこのところもうちょっと説明あってもよかったかなと思いました。
そういう風にもっとモチーフを重ねてイメージをふくらませたらいいのにと思うことは他にもあった。イメージの伏線というか。たとえば地下世界の目印が柘榴だと、私なら軽率にペルセポネと重ね合わせたくなるんだけど。一応カソリックの神父だからギリシャ神話は使えないのかしら。
今作で良かったのは、平賀とロベルト両方がちゃんとそれぞれの専門知識を活かして活躍してたことです。ポンコツ感が少なかった。
前2作で、それぞれの専門分野を紹介してからの3作目だからなのかもしれませんが。
ところで最初1巻を読んだとき勘違いしてたけど、紹介文によれば「天才」なのは平賀だけで、ロベルトはただの「エキスパート」なんですね。
キャラクターの書き方については、もう慣れるしかないんだろうなぁ。
3巻まで読んだら情報量が増えて愛着持てるかなとちょっと思ってたんだけど、特に増えなかったですね。
相変わらずキャラが情報・設定でしかないように思えてしまう。物語を動かすためのコマでしかない感じがする。
ロベルトの方はまだ人間臭さがあるし2巻で過去分かったしで、人に見えるんだけど。
これまででもう一つ苦手だったポイントの、薀蓄の出し方は今回はかなり改善されていたと思います。
台詞で長々と喋ることはなくなって、地の文で説明するようになっていたので。
あと今回は特に、このために作られた民話(とはいえ既存の類話はありますが、フォークロアはそういうものですし。でも3つのオレンジと笛吹男はヨーロッパの物語だけど、最初のは落語の死神だよね?イタリアにもあるの?)に込められた謎を解いていたので、わざわざひけらかすまでもない薀蓄自体が少なかったような気がします。出し方以前に。
平賀担当部分も、もともと私は理系知識少ないからかもしれないけど、必要十分な説明でしたし。
「ソロモンの忠告」を平賀に暗誦させるのは必要なかったと思うけど。口頭での物語の語りなら暗誦ではなく話者らしさがほしかった。というのは求めすぎでしょうか。
ところで固有振動数というか、その周波数だったのは単なる偶然だったの?その解決で本当にいいの?えー。
キリスト像も、温度変化は単なる偶然に頼ってるのかというのに引っかかる。
空気中に粉が舞っていたなら、蝋燭の火でドカーンとかならないんでしょうか。そこまでの量ではないのかな。というかこれはさすがに思考が「アゾート」に引きずられてる気がします。
これから、ガルドウネとの対決がメインになっていくのでしょうか。
陰謀論はフィクションと弁えた上で楽しむのは好きなんですけど、ミステリめいたものとして読んでるので、以降はずっとガルドウネが黒幕みたいな展開はさすがに嫌なんですけど。まさかそんなことはないよね。
ビル捜査官が都合良くギリシャ語を知っていたのがちょっと怪しいんですけど、警察に属して油断させてるガルドウネ(あるいはほかの秘密組織)メンバーなのでは?
『盤上の夜』
……すごい小説でした。
理解したというよりは表層をなぞっただけのような読み方で、書かれていることもその先にあるものもよく分かってはいないけど、よく分からないからこそ、これは何かすごいものなのではないかと思う、そんな小説でした。
囲碁、チェッカー、麻雀、将棋といった盤上ゲームをめぐる6つの短編。
ゲームの対戦やそれに関わる人間模様はもちろん描かれるのだけれど、この本の主題はそこにはなく、もっと根源的な問いであると感じました。すなわち、ゲームとは何か。
だからか、私は全然ゲームに疎い人間なのにそこまで苦戦せずに読めました。
この短編集に出てくるゲームでいえば、せいぜい将棋のコマの動かし方を知っているぐらいで、囲碁も麻雀もルールを知りません。チャトランガは言うに及ばず。
そんなわけで、対戦・対局中の展開はあまり分からなくて半分読み飛ばしていたぐらい。でも何が起きてるか分からなくても、たぶんここでゲーム的に盛り上がってるんだろうなというのは想像できるので、なんとなく。
もちろん、分かった方がよりおもしろいんだろうなとは思いましたが。
なんていうか、たぶんそこはこの短編集の主題ではないんですよね。
だからゲームのルールを知らなくても楽しめる。
これもSFなのかという驚きもありました。
通常SFといって想像するような宇宙や機械や科学技術はほとんど出てこない。
作中の世界はたぶん現在よりは未来で、脳波で動く義肢や故人の意識を再現するプログラムや量子コンピュータが実用化されている。そういうものはSFっぽいけど、でもそれも背景でしかなくて。
定義論ができるほどSFに詳しいわけでもないので、「だからこれはSFじゃない」と言うつもりは全くありません。むしろ逆で、SF的なガジェットがなくてもSFでありうるなら、SFの地平はどこまでのびているんだろうという感動。
神についての問いに行き着くのも私はSFっぽいと思うのです。
というより、今まで読んできたものから分析すると、おもしろいSFって神や哲学をテーマにしているものが多い印象で。……たぶん、読んできたものが偏っているというのもあるのでしょうが。
科学を突き詰めると、信仰に行き着くのでしょうか。そもそも科学も神が造った世界の在り方を知るために始まったものですし。
この『盤上の夜』という短編集は一応同じ人物を語り手とした連作短編で、テーマ的にも緩やかにつながっているのだけれども、それぞれの物語は完全に独立していて、『ヨハネスブルグの天使たち』もこんな感じの連作の並べ方だったなぁと思い出しました。
「千年の虚空」で「我は死なり」というオッペンハイマーの言葉を引いた次の短編が「原爆の局」だったり。一方で元ネタのバガヴァット・ギーター的には5世紀インドの「象を飛ばした王子」と関連があるような。
同じ人物が語り手と言っても、彼は無色透明な存在でパーソナリティは特に明かされない。最終話では彼の気持ちも描かれるし、読んできているとそれに感情移入できるけれども、彼がどういう人物かも名前も分からない。ただ、ジャーナリストとしてだけ。
その役割については冲方丁が解説で書いているのであえて繰り返しませんが。
私が思ったのは、この短編集のそれぞれの作品はそのジャーナリストの取材メモ的なものなのだろうかということです。完成稿ではなく、取材中のジャーナリストをただ視点人物とした三人称の物語でもなく。「象を飛ばした王子」は完成稿かもしれないし、「原爆の局」はジャーナリストを視点人物とした三人称小説かもしれませんが。
取材メモ的なものというのはつまり、このジャーナリスト自身が書いたもので、ただし読み手は想定されていない。判明した事実とそれを追った経緯とインタビュー内容ともともとある情報との並べ方が混然としているのがそんな気がしました。
あと、一編一編についている英題がかっこよくて深い。
どういう意味かなと考えてみるけど、なかなかこれだという解にはたどり着けないのですが。
雰囲気で、かっこいい。
さて、個々の短編の感想。
「盤上の夜」
四肢を失い、碁盤を感覚器とするようになった女流棋士と、彼女をサポートする男性棋士の話。
この本がどういう本かということも分からないまま読み始め、囲碁のルールも知らないので、おもしろいよりも先に分からないが来た。
時系列がかなり飛ぶので、由宇がいなくなったのがいつで、書かれている現在はそこから何年後で、ということも分かりにくかった。
過去の話、由宇に関する相田の話は興味深かった。強くなるために、感覚を精密にするために、外国語を学ぶという飛躍がおもしろい。
ラストは爽やかな雰囲気で好きです。
「人間の王」
かつてチェッカーで無敗を誇ったチャンピオンが、機械に負け、そのプログラムは後に完全解を発見してしまう。
語り手は誰か、ということが謎めいてて興味をひかれる。
人間の王ティンズリーが「自分という存在のプログラマは神だ」というのはすごくかっこいい。
「彼」ではないこのインタビュイーのプログラマはそうではないから、その言葉を言えないのだろうか。
これも最後の台詞がとても良かったです。
完全解が発見され、機械に敗れ、それでも「わたし」が勝つと言うことにやはり業のようなものを見ると同時に、過去の言葉を引用していることで人格の一貫性が感じられるのが良い。
彼と戦って、このインタビュイーが勝つとしたら、それは、「誰」が勝ったことになるのだろうか。
「清められた卓」
歴史から抹消された麻雀タイトル戦についての物語。
これは最後の伏線回収というか謎解きというか、彼女の目的というかがすごくて鳥肌が立った。
その事実自体もすごいのだけれども、見せ方がミステリっぽくて好き。
どういうシステムでそれが為せるのだろう……。
ただこの作品が一番、対局の展開を追う話だったので、用語も分からず何が起こっているのやら……という感じが強かった。
「象を飛ばした王子」
将棋やチェスの起源と考えられる古代インドの盤上遊戯、チャトランガの誕生の物語。
この話が一番好きです。
いや、うん。私の好みとして宗教のものが好きなのと、実は歴史上のこのエピソードだったんですみたいな話がとても好きなのが大きいとは思いますが。
仏伝はあまり詳しくないので、この話がどこまでが史料を踏まえたもので、どこからが宮内さんオリジナルなのかの峻別はできないのですが、こういうことが本当にあったかもしれないと夢想できるリアリティがありました。
あとラーフラ・エクリプス・天然痘のイメージの連鎖が美しい。そのイメージが増殖していくゲームにも展開していくのも、その名が悪魔にすり替わっていくのも。すごく好き。
そして218ページ後ろから2行目の台詞!めちゃくちゃ本質を表していて、これを書ける才能にただ感嘆する。
「千年の虚空」
政治家と将棋棋士の兄弟と、二人と共にいた一人の女性の話。解説の言葉を借りれば「『人生の再生と、ゲームの終焉』を願う物語」
逆にこの話は苦手です。
退廃的な関係性になんとなく嫌悪感があったのと、「ゲームを殺すゲーム」「暴力の終焉」という言葉の具体的な内容がよく分からなかったのと、誰も成し遂げていないから三人が何をやりたかったのかも分からなくて、ほかの短編にあった爽やかな雰囲気がなく苦みだけがあるので。
なにより、歴史が好きな私は「量子歴史学」というものに反発してしまう気持ちがある。
その結果はおもしろいと思うんだけれども、現実や自分に引き写して考えると拒否したくなる。結局機械がなくとも、現実として個々人が好きな歴史を選んでいるようなところは実際にあるわけで。
一つ前の短編で「戦争をやめさせるために」チャトランガを献上したのに対して、この短編では暴力の終焉をめざして将棋を突き詰めているのがおもしろいとは思いますが。
「原爆の局」
一話目で登場した相田と由宇の行方を追って、ジャーナリストはアメリカへ向かう。相田と由宇は1945年8月6日の広島で打たれていた〈原爆の局〉の棋譜を、ホワイトサンズ砂漠で再現していた。
由宇と井上の対局を見ていたジャーナリストの「現実の底が抜けた」後の散文的な箇条書き的な描写、これまでの4つの短編の断片や人類の営為を幻視する文章がとても良かったです。
それぞれの文章に元ネタはあるのだろうか。あるならば、それを知りたい。
原爆をテーマにしていることもあり、このテキストを追いながら私は柳広司『新世界』の第16章を想起していました。……『新世界』は私にとって強烈な印象を植え付けた本なので、原爆や戦争関係の物事について読むとすぐに思い出してしまう。
ともかく、ここの316~319ページの文章はこれ自体に意味がある文章というだけではなく、関連する何かを思い出させて意味を広げるような効果を意図している文章なのでは、とまで思ってしまった。
潜水というイメージは一方で、3月のライオンにそんなシーンがあったことを思い出す。囲碁も将棋も深く潜っていくところは同じなのかもしれないと納得したのですが、詳しい人からすると全然違うと言われてしまうのかも。
これもどこまでが実際にあったことでどこからが創作なのか、その継ぎ目が分からない作品でした。
だから、きっとこれは実際にあっただろうことで変えられない過去なのだと思っていても、広島に留まった関係者のことを考えると切なくなる。
理解したというよりは表層をなぞっただけのような読み方で、書かれていることもその先にあるものもよく分かってはいないけど、よく分からないからこそ、これは何かすごいものなのではないかと思う、そんな小説でした。
囲碁、チェッカー、麻雀、将棋といった盤上ゲームをめぐる6つの短編。
ゲームの対戦やそれに関わる人間模様はもちろん描かれるのだけれど、この本の主題はそこにはなく、もっと根源的な問いであると感じました。すなわち、ゲームとは何か。
だからか、私は全然ゲームに疎い人間なのにそこまで苦戦せずに読めました。
この短編集に出てくるゲームでいえば、せいぜい将棋のコマの動かし方を知っているぐらいで、囲碁も麻雀もルールを知りません。チャトランガは言うに及ばず。
そんなわけで、対戦・対局中の展開はあまり分からなくて半分読み飛ばしていたぐらい。でも何が起きてるか分からなくても、たぶんここでゲーム的に盛り上がってるんだろうなというのは想像できるので、なんとなく。
もちろん、分かった方がよりおもしろいんだろうなとは思いましたが。
なんていうか、たぶんそこはこの短編集の主題ではないんですよね。
だからゲームのルールを知らなくても楽しめる。
これもSFなのかという驚きもありました。
通常SFといって想像するような宇宙や機械や科学技術はほとんど出てこない。
作中の世界はたぶん現在よりは未来で、脳波で動く義肢や故人の意識を再現するプログラムや量子コンピュータが実用化されている。そういうものはSFっぽいけど、でもそれも背景でしかなくて。
定義論ができるほどSFに詳しいわけでもないので、「だからこれはSFじゃない」と言うつもりは全くありません。むしろ逆で、SF的なガジェットがなくてもSFでありうるなら、SFの地平はどこまでのびているんだろうという感動。
神についての問いに行き着くのも私はSFっぽいと思うのです。
というより、今まで読んできたものから分析すると、おもしろいSFって神や哲学をテーマにしているものが多い印象で。……たぶん、読んできたものが偏っているというのもあるのでしょうが。
科学を突き詰めると、信仰に行き着くのでしょうか。そもそも科学も神が造った世界の在り方を知るために始まったものですし。
この『盤上の夜』という短編集は一応同じ人物を語り手とした連作短編で、テーマ的にも緩やかにつながっているのだけれども、それぞれの物語は完全に独立していて、『ヨハネスブルグの天使たち』もこんな感じの連作の並べ方だったなぁと思い出しました。
「千年の虚空」で「我は死なり」というオッペンハイマーの言葉を引いた次の短編が「原爆の局」だったり。一方で元ネタのバガヴァット・ギーター的には5世紀インドの「象を飛ばした王子」と関連があるような。
同じ人物が語り手と言っても、彼は無色透明な存在でパーソナリティは特に明かされない。最終話では彼の気持ちも描かれるし、読んできているとそれに感情移入できるけれども、彼がどういう人物かも名前も分からない。ただ、ジャーナリストとしてだけ。
その役割については冲方丁が解説で書いているのであえて繰り返しませんが。
私が思ったのは、この短編集のそれぞれの作品はそのジャーナリストの取材メモ的なものなのだろうかということです。完成稿ではなく、取材中のジャーナリストをただ視点人物とした三人称の物語でもなく。「象を飛ばした王子」は完成稿かもしれないし、「原爆の局」はジャーナリストを視点人物とした三人称小説かもしれませんが。
取材メモ的なものというのはつまり、このジャーナリスト自身が書いたもので、ただし読み手は想定されていない。判明した事実とそれを追った経緯とインタビュー内容ともともとある情報との並べ方が混然としているのがそんな気がしました。
あと、一編一編についている英題がかっこよくて深い。
どういう意味かなと考えてみるけど、なかなかこれだという解にはたどり着けないのですが。
雰囲気で、かっこいい。
さて、個々の短編の感想。
「盤上の夜」
四肢を失い、碁盤を感覚器とするようになった女流棋士と、彼女をサポートする男性棋士の話。
この本がどういう本かということも分からないまま読み始め、囲碁のルールも知らないので、おもしろいよりも先に分からないが来た。
時系列がかなり飛ぶので、由宇がいなくなったのがいつで、書かれている現在はそこから何年後で、ということも分かりにくかった。
過去の話、由宇に関する相田の話は興味深かった。強くなるために、感覚を精密にするために、外国語を学ぶという飛躍がおもしろい。
ラストは爽やかな雰囲気で好きです。
「人間の王」
かつてチェッカーで無敗を誇ったチャンピオンが、機械に負け、そのプログラムは後に完全解を発見してしまう。
語り手は誰か、ということが謎めいてて興味をひかれる。
人間の王ティンズリーが「自分という存在のプログラマは神だ」というのはすごくかっこいい。
「彼」ではないこのインタビュイーのプログラマはそうではないから、その言葉を言えないのだろうか。
これも最後の台詞がとても良かったです。
完全解が発見され、機械に敗れ、それでも「わたし」が勝つと言うことにやはり業のようなものを見ると同時に、過去の言葉を引用していることで人格の一貫性が感じられるのが良い。
彼と戦って、このインタビュイーが勝つとしたら、それは、「誰」が勝ったことになるのだろうか。
「清められた卓」
歴史から抹消された麻雀タイトル戦についての物語。
これは最後の伏線回収というか謎解きというか、彼女の目的というかがすごくて鳥肌が立った。
その事実自体もすごいのだけれども、見せ方がミステリっぽくて好き。
どういうシステムでそれが為せるのだろう……。
ただこの作品が一番、対局の展開を追う話だったので、用語も分からず何が起こっているのやら……という感じが強かった。
「象を飛ばした王子」
将棋やチェスの起源と考えられる古代インドの盤上遊戯、チャトランガの誕生の物語。
この話が一番好きです。
いや、うん。私の好みとして宗教のものが好きなのと、実は歴史上のこのエピソードだったんですみたいな話がとても好きなのが大きいとは思いますが。
仏伝はあまり詳しくないので、この話がどこまでが史料を踏まえたもので、どこからが宮内さんオリジナルなのかの峻別はできないのですが、こういうことが本当にあったかもしれないと夢想できるリアリティがありました。
あとラーフラ・エクリプス・天然痘のイメージの連鎖が美しい。そのイメージが増殖していくゲームにも展開していくのも、その名が悪魔にすり替わっていくのも。すごく好き。
そして218ページ後ろから2行目の台詞!めちゃくちゃ本質を表していて、これを書ける才能にただ感嘆する。
「千年の虚空」
政治家と将棋棋士の兄弟と、二人と共にいた一人の女性の話。解説の言葉を借りれば「『人生の再生と、ゲームの終焉』を願う物語」
逆にこの話は苦手です。
退廃的な関係性になんとなく嫌悪感があったのと、「ゲームを殺すゲーム」「暴力の終焉」という言葉の具体的な内容がよく分からなかったのと、誰も成し遂げていないから三人が何をやりたかったのかも分からなくて、ほかの短編にあった爽やかな雰囲気がなく苦みだけがあるので。
なにより、歴史が好きな私は「量子歴史学」というものに反発してしまう気持ちがある。
その結果はおもしろいと思うんだけれども、現実や自分に引き写して考えると拒否したくなる。結局機械がなくとも、現実として個々人が好きな歴史を選んでいるようなところは実際にあるわけで。
一つ前の短編で「戦争をやめさせるために」チャトランガを献上したのに対して、この短編では暴力の終焉をめざして将棋を突き詰めているのがおもしろいとは思いますが。
「原爆の局」
一話目で登場した相田と由宇の行方を追って、ジャーナリストはアメリカへ向かう。相田と由宇は1945年8月6日の広島で打たれていた〈原爆の局〉の棋譜を、ホワイトサンズ砂漠で再現していた。
由宇と井上の対局を見ていたジャーナリストの「現実の底が抜けた」後の散文的な箇条書き的な描写、これまでの4つの短編の断片や人類の営為を幻視する文章がとても良かったです。
それぞれの文章に元ネタはあるのだろうか。あるならば、それを知りたい。
原爆をテーマにしていることもあり、このテキストを追いながら私は柳広司『新世界』の第16章を想起していました。……『新世界』は私にとって強烈な印象を植え付けた本なので、原爆や戦争関係の物事について読むとすぐに思い出してしまう。
ともかく、ここの316~319ページの文章はこれ自体に意味がある文章というだけではなく、関連する何かを思い出させて意味を広げるような効果を意図している文章なのでは、とまで思ってしまった。
潜水というイメージは一方で、3月のライオンにそんなシーンがあったことを思い出す。囲碁も将棋も深く潜っていくところは同じなのかもしれないと納得したのですが、詳しい人からすると全然違うと言われてしまうのかも。
これもどこまでが実際にあったことでどこからが創作なのか、その継ぎ目が分からない作品でした。
だから、きっとこれは実際にあっただろうことで変えられない過去なのだと思っていても、広島に留まった関係者のことを考えると切なくなる。
『know』(と、「正解するカド」)
アニメ「正解するカド」を見ていました。
最初の数話は未知の存在との遭遇で、技術とか文化との違いにわくわくして、それらがもたらされることによって人間の世界がどう変わってしまうのか考えたりして、とても面白かった。
徐々に雲行きが怪しくなっていくのも、ファーストコンタクトものにありがちな展開だから、どう解決していくのかと楽しみですらあった。
でも最終回がとてもひどかった。釈然としない。それまでは影も形もなかった、そういう存在がどういう意味をもちうるのかすら何も伏線がなかった人が出てきて一気に解決するのは違うだろうと思ったし、だからキャラクターたちの感情が全く分からなくって、心情がわかるザシュニナと花森さんはただかわいそうで、ザシュニナが死んだのか異方に戻ったのかもよく分からないし、なんていうか完全に「人」が置き去りな感じがした。
だから、野崎まどを読んでみようと思いました。理解するために。
以前にアムリタを読んだけどおもしろさが分からなくて、でも絶賛されている作家だし、なんとなくの苦手意識が合って読んでいなかったんですけど。
kindleでセールしてたときに買っていたものがたまたま手元にあったので、まずはこれから。
ざっくりと結論から言います。
好きじゃない部分は山ほどあるけど、引き込まれてしまう小説だった。
読んでいる間は続きが気になってどんどんページが進んだし、読了後もこの話についていろいろ考えてしまう。
そういう意味ではすごい作品なのだと思います。
でも好きじゃない部分が山ほどあるから、好きとは言いたくない。手放しには褒めたくない。
一番合わなかったのは、地の文です。
体言止めの多用。文章から霧のように立ち上がってくる、肥大した自意識と根拠のない全能感。
一言でいってしまえば青臭い。
主人公が中学生や高校生という設定ならまだしも、28歳でこれっていつまで思春期引きずってんだって思った。
私もまだ若かった頃なら読めたかもしれないけど、今の私にはつらかった。
14歳の頃を回想するシーンはこの若さが良い雰囲気づくりになっていたんですけど。連レルの精神は先生と出会ったそのときで止まってしまったってことなんだろうか。
世界設定は面白かったです。
情報材で建物や道路が覆われ、超情報化した社会。人々は脳に人造の脳葉”電子葉”を移植することが義務付けられ、”鍵刺激”に関連する情報が自動的に調べられる。電子葉は脳の電位変化を操作することで実際にないものを聞き、見ることができる。
舞台が見知った京都なのも、懐かしかった。(京都の中でも特に知っている場所が出てきていたので、なおさら)
一方で、そういう超情報化した世界で調べた「情報の確実性」はどうやって担保されるのだろうということや、メディアはどうなっているかということに私は関心があったのだけれども、特に書かれることがなくてフラストレーションが溜まってる。
私の中では、私の知っている現代のインターネットが基準になっているから、ネット検索ではごみのような情報ばかりが出てきてしまうとか、探そうとしたことがどこにも載っていないとか、そもそも書いてあることが本当なのかが分からないものだという認識が前提としてあるので。
この小説の中の情報材の設定では、現在と少なくとも情報材が塗布されてからの情報は蓄えられている(メモリ容量も気になるが)にしても、それ以前の過去についての情報はそこまで莫大に増えてはいないと思うんです。
でもたとえば二十八部衆について知ることができるのなら、それらについての情報はどこかにあるわけで。漠然と百科事典のようなものを想像しているのだけれども。その情報は誰が作っているのか。
あるいは答えがないこと、研究・議論されている問題、人によって何が正しいかが変わりうることについては、どういう扱いなのか。
今みたいに個人や企業が運営しているサイトみたいなものは完全になくなっているのだろうか。出版された本もすべて電子化されて公開されているのだろうか。でもそれにしたって確実性のない本なんて山ほどあるし。
そう考えていくと今度はメディアがどうなっているのかが気になる。「大衆の知らないことを報せる」のがメディアだと思うんです。でも、超情報化によって「知らないこと」がほとんどなくなってしまう。だとするとメディアは何を「報せる」ことができるのか。
知ルですらその場に行かないと知れないことがあるのなら、一般人に知れないことはもっとあるのでしょうけど。
ただまあ、そういう世界で「『最初から知っている』と『調べて知る』ことの差異はどんどん縮まっている」というのはおもしろいなって思いました。
これもだけれど、印象に残った表現はいくつかあった。
「”情報が取得できない”というのも立派な情報の一つ」というのも何となく印象に残っている言葉です、シチュエーション含めて。
知るということと、情報がテーマになっている話で、そうしたテーマの部分は読んでいて楽しかったです。
だからこそ私はさっき長々と書いたように情報の正しさの方が気になってしまったけれども。
そして、全知を求める人がどうしても知りたかったことがあれだったというのも興味深い。
ただ、私はあのモチーフが大好きで、だから(主に地の文で好きじゃないと感じる小説が)それを使っていること自体が嫌悪感を抱いてしまった。……いや、これは完全なわがままですね。私の専売ってわけじゃないんだから。でも使うならもっとうまく使ってほしかったです。
イザナギ・イザナミにせよ、オルフェウスにせよ、「女を連れ戻すために男が行って戻ってくる」話なので、連レルが迎えに行くわけじゃないのかってのが意外でした。え、書かれていないところで迎えに行ったの?
それとも立場が逆で、知ルがイザナギなのかしら。性別が入れ替わっていて、先に逝った先生がイザナミで、だから知識の神とつながるかしら。
一人で行って帰ってくるならイナンナだよね。まぁ、知ルがイナンナなら待っていなかった連レルが冥界に堕ちることになるけど。
京都御所の地下に、ってやつもこういう話でそういうのが出てくるのが嫌だった。これも似たようなわがままです。
というか、京都御所があそこになる前に内裏は何度も焼けているわけですし、あそこにあるものたちの来し方がだいぶふわっとしすぎていて歴史好きとしては気になってしまう。
使われないまま保存され続ける情報に意味はあるのだろうか。
というのがこの物語においてあの場所が出てくる意味なのかなと思うけれども。
でも、そこで得た情報は特に示されないしなーというのが不満です。いや、存在しないものの内容を具体的に示せないのはそういうものかもしれないが。
エピローグが直接的なものではないけれども、5章の後を想像しうるもので、これぐらいの距離感は好きだなって思いました。
情報処理能力が高すぎるから「本気の会話」をしたいというのは、ちょっと異方存在を思い出しました。というかそもそも、知ルのイメージがカドの最終回で出てきた彼女とだぶるところがありますね。
強大な能力をもった女の子が好きなのだろうか。
私はあまり萌えないけど。
この小説も、SF的なネタと小説(物語と文章)とがどうも噛み合っていないような気がして、そしてアムリタもカドもそういう印象を受けたような気がする。
物語である以上、一点だけ突出しているからすごいものだとは私は思えない。
もう何作か読んでみようと思うけれども。その印象を塗り替えてくれるものがあることを願って。
最初の数話は未知の存在との遭遇で、技術とか文化との違いにわくわくして、それらがもたらされることによって人間の世界がどう変わってしまうのか考えたりして、とても面白かった。
徐々に雲行きが怪しくなっていくのも、ファーストコンタクトものにありがちな展開だから、どう解決していくのかと楽しみですらあった。
でも最終回がとてもひどかった。釈然としない。それまでは影も形もなかった、そういう存在がどういう意味をもちうるのかすら何も伏線がなかった人が出てきて一気に解決するのは違うだろうと思ったし、だからキャラクターたちの感情が全く分からなくって、心情がわかるザシュニナと花森さんはただかわいそうで、ザシュニナが死んだのか異方に戻ったのかもよく分からないし、なんていうか完全に「人」が置き去りな感じがした。
だから、野崎まどを読んでみようと思いました。理解するために。
以前にアムリタを読んだけどおもしろさが分からなくて、でも絶賛されている作家だし、なんとなくの苦手意識が合って読んでいなかったんですけど。
kindleでセールしてたときに買っていたものがたまたま手元にあったので、まずはこれから。
ざっくりと結論から言います。
好きじゃない部分は山ほどあるけど、引き込まれてしまう小説だった。
読んでいる間は続きが気になってどんどんページが進んだし、読了後もこの話についていろいろ考えてしまう。
そういう意味ではすごい作品なのだと思います。
でも好きじゃない部分が山ほどあるから、好きとは言いたくない。手放しには褒めたくない。
一番合わなかったのは、地の文です。
体言止めの多用。文章から霧のように立ち上がってくる、肥大した自意識と根拠のない全能感。
一言でいってしまえば青臭い。
主人公が中学生や高校生という設定ならまだしも、28歳でこれっていつまで思春期引きずってんだって思った。
私もまだ若かった頃なら読めたかもしれないけど、今の私にはつらかった。
14歳の頃を回想するシーンはこの若さが良い雰囲気づくりになっていたんですけど。連レルの精神は先生と出会ったそのときで止まってしまったってことなんだろうか。
世界設定は面白かったです。
情報材で建物や道路が覆われ、超情報化した社会。人々は脳に人造の脳葉”電子葉”を移植することが義務付けられ、”鍵刺激”に関連する情報が自動的に調べられる。電子葉は脳の電位変化を操作することで実際にないものを聞き、見ることができる。
舞台が見知った京都なのも、懐かしかった。(京都の中でも特に知っている場所が出てきていたので、なおさら)
一方で、そういう超情報化した世界で調べた「情報の確実性」はどうやって担保されるのだろうということや、メディアはどうなっているかということに私は関心があったのだけれども、特に書かれることがなくてフラストレーションが溜まってる。
私の中では、私の知っている現代のインターネットが基準になっているから、ネット検索ではごみのような情報ばかりが出てきてしまうとか、探そうとしたことがどこにも載っていないとか、そもそも書いてあることが本当なのかが分からないものだという認識が前提としてあるので。
この小説の中の情報材の設定では、現在と少なくとも情報材が塗布されてからの情報は蓄えられている(メモリ容量も気になるが)にしても、それ以前の過去についての情報はそこまで莫大に増えてはいないと思うんです。
でもたとえば二十八部衆について知ることができるのなら、それらについての情報はどこかにあるわけで。漠然と百科事典のようなものを想像しているのだけれども。その情報は誰が作っているのか。
あるいは答えがないこと、研究・議論されている問題、人によって何が正しいかが変わりうることについては、どういう扱いなのか。
今みたいに個人や企業が運営しているサイトみたいなものは完全になくなっているのだろうか。出版された本もすべて電子化されて公開されているのだろうか。でもそれにしたって確実性のない本なんて山ほどあるし。
そう考えていくと今度はメディアがどうなっているのかが気になる。「大衆の知らないことを報せる」のがメディアだと思うんです。でも、超情報化によって「知らないこと」がほとんどなくなってしまう。だとするとメディアは何を「報せる」ことができるのか。
知ルですらその場に行かないと知れないことがあるのなら、一般人に知れないことはもっとあるのでしょうけど。
ただまあ、そういう世界で「『最初から知っている』と『調べて知る』ことの差異はどんどん縮まっている」というのはおもしろいなって思いました。
これもだけれど、印象に残った表現はいくつかあった。
「”情報が取得できない”というのも立派な情報の一つ」というのも何となく印象に残っている言葉です、シチュエーション含めて。
知るということと、情報がテーマになっている話で、そうしたテーマの部分は読んでいて楽しかったです。
だからこそ私はさっき長々と書いたように情報の正しさの方が気になってしまったけれども。
そして、全知を求める人がどうしても知りたかったことがあれだったというのも興味深い。
ただ、私はあのモチーフが大好きで、だから(主に地の文で好きじゃないと感じる小説が)それを使っていること自体が嫌悪感を抱いてしまった。……いや、これは完全なわがままですね。私の専売ってわけじゃないんだから。でも使うならもっとうまく使ってほしかったです。
イザナギ・イザナミにせよ、オルフェウスにせよ、「女を連れ戻すために男が行って戻ってくる」話なので、連レルが迎えに行くわけじゃないのかってのが意外でした。え、書かれていないところで迎えに行ったの?
それとも立場が逆で、知ルがイザナギなのかしら。性別が入れ替わっていて、先に逝った先生がイザナミで、だから知識の神とつながるかしら。
一人で行って帰ってくるならイナンナだよね。まぁ、知ルがイナンナなら待っていなかった連レルが冥界に堕ちることになるけど。
京都御所の地下に、ってやつもこういう話でそういうのが出てくるのが嫌だった。これも似たようなわがままです。
というか、京都御所があそこになる前に内裏は何度も焼けているわけですし、あそこにあるものたちの来し方がだいぶふわっとしすぎていて歴史好きとしては気になってしまう。
使われないまま保存され続ける情報に意味はあるのだろうか。
というのがこの物語においてあの場所が出てくる意味なのかなと思うけれども。
でも、そこで得た情報は特に示されないしなーというのが不満です。いや、存在しないものの内容を具体的に示せないのはそういうものかもしれないが。
エピローグが直接的なものではないけれども、5章の後を想像しうるもので、これぐらいの距離感は好きだなって思いました。
情報処理能力が高すぎるから「本気の会話」をしたいというのは、ちょっと異方存在を思い出しました。というかそもそも、知ルのイメージがカドの最終回で出てきた彼女とだぶるところがありますね。
強大な能力をもった女の子が好きなのだろうか。
私はあまり萌えないけど。
この小説も、SF的なネタと小説(物語と文章)とがどうも噛み合っていないような気がして、そしてアムリタもカドもそういう印象を受けたような気がする。
物語である以上、一点だけ突出しているからすごいものだとは私は思えない。
もう何作か読んでみようと思うけれども。その印象を塗り替えてくれるものがあることを願って。