アニメ「正解するカド」を見ていました。
最初の数話は未知の存在との遭遇で、技術とか文化との違いにわくわくして、それらがもたらされることによって人間の世界がどう変わってしまうのか考えたりして、とても面白かった。
徐々に雲行きが怪しくなっていくのも、ファーストコンタクトものにありがちな展開だから、どう解決していくのかと楽しみですらあった。
でも最終回がとてもひどかった。釈然としない。それまでは影も形もなかった、そういう存在がどういう意味をもちうるのかすら何も伏線がなかった人が出てきて一気に解決するのは違うだろうと思ったし、だからキャラクターたちの感情が全く分からなくって、心情がわかるザシュニナと花森さんはただかわいそうで、ザシュニナが死んだのか異方に戻ったのかもよく分からないし、なんていうか完全に「人」が置き去りな感じがした。
だから、野崎まどを読んでみようと思いました。理解するために。
以前にアムリタを読んだけどおもしろさが分からなくて、でも絶賛されている作家だし、なんとなくの苦手意識が合って読んでいなかったんですけど。
kindleでセールしてたときに買っていたものがたまたま手元にあったので、まずはこれから。
ざっくりと結論から言います。
好きじゃない部分は山ほどあるけど、引き込まれてしまう小説だった。
読んでいる間は続きが気になってどんどんページが進んだし、読了後もこの話についていろいろ考えてしまう。
そういう意味ではすごい作品なのだと思います。
でも好きじゃない部分が山ほどあるから、好きとは言いたくない。手放しには褒めたくない。
一番合わなかったのは、地の文です。
体言止めの多用。文章から霧のように立ち上がってくる、肥大した自意識と根拠のない全能感。
一言でいってしまえば青臭い。
主人公が中学生や高校生という設定ならまだしも、28歳でこれっていつまで思春期引きずってんだって思った。
私もまだ若かった頃なら読めたかもしれないけど、今の私にはつらかった。
14歳の頃を回想するシーンはこの若さが良い雰囲気づくりになっていたんですけど。連レルの精神は先生と出会ったそのときで止まってしまったってことなんだろうか。
世界設定は面白かったです。
情報材で建物や道路が覆われ、超情報化した社会。人々は脳に人造の脳葉”電子葉”を移植することが義務付けられ、”鍵刺激”に関連する情報が自動的に調べられる。電子葉は脳の電位変化を操作することで実際にないものを聞き、見ることができる。
舞台が見知った京都なのも、懐かしかった。(京都の中でも特に知っている場所が出てきていたので、なおさら)
一方で、そういう超情報化した世界で調べた「情報の確実性」はどうやって担保されるのだろうということや、メディアはどうなっているかということに私は関心があったのだけれども、特に書かれることがなくてフラストレーションが溜まってる。
私の中では、私の知っている現代のインターネットが基準になっているから、ネット検索ではごみのような情報ばかりが出てきてしまうとか、探そうとしたことがどこにも載っていないとか、そもそも書いてあることが本当なのかが分からないものだという認識が前提としてあるので。
この小説の中の情報材の設定では、現在と少なくとも情報材が塗布されてからの情報は蓄えられている(メモリ容量も気になるが)にしても、それ以前の過去についての情報はそこまで莫大に増えてはいないと思うんです。
でもたとえば二十八部衆について知ることができるのなら、それらについての情報はどこかにあるわけで。漠然と百科事典のようなものを想像しているのだけれども。その情報は誰が作っているのか。
あるいは答えがないこと、研究・議論されている問題、人によって何が正しいかが変わりうることについては、どういう扱いなのか。
今みたいに個人や企業が運営しているサイトみたいなものは完全になくなっているのだろうか。出版された本もすべて電子化されて公開されているのだろうか。でもそれにしたって確実性のない本なんて山ほどあるし。
そう考えていくと今度はメディアがどうなっているのかが気になる。「大衆の知らないことを報せる」のがメディアだと思うんです。でも、超情報化によって「知らないこと」がほとんどなくなってしまう。だとするとメディアは何を「報せる」ことができるのか。
知ルですらその場に行かないと知れないことがあるのなら、一般人に知れないことはもっとあるのでしょうけど。
ただまあ、そういう世界で「『最初から知っている』と『調べて知る』ことの差異はどんどん縮まっている」というのはおもしろいなって思いました。
これもだけれど、印象に残った表現はいくつかあった。
「”情報が取得できない”というのも立派な情報の一つ」というのも何となく印象に残っている言葉です、シチュエーション含めて。
知るということと、情報がテーマになっている話で、そうしたテーマの部分は読んでいて楽しかったです。
だからこそ私はさっき長々と書いたように情報の正しさの方が気になってしまったけれども。
そして、全知を求める人がどうしても知りたかったことがあれだったというのも興味深い。
ただ、私はあのモチーフが大好きで、だから(主に地の文で好きじゃないと感じる小説が)それを使っていること自体が嫌悪感を抱いてしまった。……いや、これは完全なわがままですね。私の専売ってわけじゃないんだから。でも使うならもっとうまく使ってほしかったです。
イザナギ・イザナミにせよ、オルフェウスにせよ、「女を連れ戻すために男が行って戻ってくる」話なので、連レルが迎えに行くわけじゃないのかってのが意外でした。え、書かれていないところで迎えに行ったの?
それとも立場が逆で、知ルがイザナギなのかしら。性別が入れ替わっていて、先に逝った先生がイザナミで、だから知識の神とつながるかしら。
一人で行って帰ってくるならイナンナだよね。まぁ、知ルがイナンナなら待っていなかった連レルが冥界に堕ちることになるけど。
京都御所の地下に、ってやつもこういう話でそういうのが出てくるのが嫌だった。これも似たようなわがままです。
というか、京都御所があそこになる前に内裏は何度も焼けているわけですし、あそこにあるものたちの来し方がだいぶふわっとしすぎていて歴史好きとしては気になってしまう。
使われないまま保存され続ける情報に意味はあるのだろうか。
というのがこの物語においてあの場所が出てくる意味なのかなと思うけれども。
でも、そこで得た情報は特に示されないしなーというのが不満です。いや、存在しないものの内容を具体的に示せないのはそういうものかもしれないが。
エピローグが直接的なものではないけれども、5章の後を想像しうるもので、これぐらいの距離感は好きだなって思いました。
情報処理能力が高すぎるから「本気の会話」をしたいというのは、ちょっと異方存在を思い出しました。というかそもそも、知ルのイメージがカドの最終回で出てきた彼女とだぶるところがありますね。
強大な能力をもった女の子が好きなのだろうか。
私はあまり萌えないけど。
この小説も、SF的なネタと小説(物語と文章)とがどうも噛み合っていないような気がして、そしてアムリタもカドもそういう印象を受けたような気がする。
物語である以上、一点だけ突出しているからすごいものだとは私は思えない。
もう何作か読んでみようと思うけれども。その印象を塗り替えてくれるものがあることを願って。
[1回]
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