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2024/05/20 (Mon)

「ボートの三人男」

「犬は勘定に入れません」(コニー・ウィリス)を読んで元ネタ(?)的なこっちも読んでみたかったんですけど、犬勘定読んでからもう半年近く経っているっていうね……。
章の初めにダイジェストがあるのも、ここからきていた形式だったんですね。
新訳が出ただか出るだかという話も聞いた気がしますが、丸谷才一訳です。

三人の男(犬は勘定に入れずに)がテムズ川をボートで小旅行する話。
ドタバタあり美文調の風景描写ありで、クスリとする感じでとてもおもしろかったです。
あと、思ったより全然読みやすかった。
ユーモア小説だからですかね。古いし翻訳だしという二重苦にもかかわらず、文章を追うだけじゃなくて普通ににやっとできました。1章あたりが短かったのも、読みやすさの原因かもしれない。
とはいえ、英国史や地理に関する記述は知識に乏しいので厳しいものがありましたが……。
はじめは彼らがどこからどこまで行くつもりなのかすらよくわかってなかったからね。いや、でも結局そこはどうでもいいんじゃないかという気もするんですけど。
川を漕いでいく間に、いろんな話が挿入されていく小説で、そこの語りがおもしろかったので。
イギリスの人は大量の親戚や友達がいて、何かあれば「そうそう知り合いのあの人もね……」みたいな話をするんだな、というイメージが刻まれました。ミス・マープルもそうだし。
いやほんと、この小説の筋運びはだいたいそんな感じなんです。
実際起こっていたことが半分、歴史や地理的な解説がちょっと、残りは以前経験したことや知人の話の笑い話みたいな。
あと意外と出発までが長かったです。

なんとなく犬は勘定に入れませんのイメージで、三人の男たちは学生か高等遊民だと思い込んでいたので、ジョージがシティで働いているってのにまずびっくりしました。思ったよりいい年なのかもしれない、この人たち。え、それでこの生活力のなさってどうなの……?19世紀イギリスではありだったのかしら。でもどっちにしろお金に困ってなさそうだし、仕事していても高等遊民なんじゃないかしら。
だって仕事に関する主人公の言い分がすごかった。
「ぼくは仕事が大好きだ。何時間も坐りこんで、仕事を眺めていることができる位なのだ。」
と言って、「愛」の名のもとに仕事をしないということを言い立てている。(第15章)
これは普通の仕事している人じゃないでしょう。
主人公は明らかに著者自身なので、作家ならこういう主張もありなのかしら?

主人公含む三人の言動の何がおもしろいかって、客観性がないことなんじゃないのかなって思った。
冒頭の致命的な百七の病気にかかっているという発見からしてそうだった。
客観的に、物理的に、現実的には全然そんなことないなんだけど本人は途方もないことを思い込んでいる(ように読める)ことのギャップによるおもしろみ。
あといろんなものを擬人化しているのも滑稽さをかもしだしていた。
第10章の湯沸しの抵抗とか。マーフィーの法則的に、見ているとなかなかお湯が沸かないもんだけど、それをこういう風に書くとおもしろさが増す。
で、その後に続く胃袋の擬人化では、滑稽味を通り越して一種の風刺のような人生訓のようなものまで感じました。
われわれは胃袋の哀れな奴隷に過ぎない。

そして彼らみんな性格が悪いからね!
いかに自分が楽かを考え、他人の失敗を笑い、自分が害を被ればひどく罵る。
その様子もまたおもしろく読んだところのひとつでした。
主人公も地の文だと一人称「ぼく」だけど、発語では「おれ」なんだよね。最初ちょっと面食らったけど、実際の会話はくだけた言葉の方が似合ってそうな雰囲気だった。
オチにはちょっとびっくりしたけど、普通に旅を終えるよりも「らしい」気がしました。

好きなシーンはいろいろありました。
第2章の「夜」の詩的表現とか、第5章の駅で汽車探しからの南西鉄道とのやりとりとか、第6章の今日の安物が未来の骨董品となるかについての瞑想とか、
パイン缶との格闘とか(そういえばもうパイナップルも缶詰も日常的にあるんですね)、ヘンリー8世時代のイギリス国民の試練とか、みんなが釣った石膏の魚とか、etc……。

パイン缶もだけど、19世紀イギリスの生活がこうだったのかなとわかるのも興味深ったです。
ボートで川を遡るときって、漕ぐだけじゃなくて曳くんだとか、テムズ河に閘門がたくさんあるのかとか、墓を見るのが流行してたのかとか。

ネッドがすれ違ったのってどこでだったっけと思いながら読んだけれども、あんまりピンとこなかった。イフリーとオックスフォードの間だったような気もするけど。

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『あしながおじさん』

実は今回初めて読みました。
読んだことがなくても、いろいろなところで言及されているし、ほかの小説でも触れられたりするので、あらすじはなんとなく知ってたんです。
孤児のジューディがあしながおじさんに援助を受けて大学に通い、最後には結ばれる、って。

読んでみて思ったのは、あらすじではなく文体を楽しむ小説なんだってことでした。
手紙というかたちで綴られる、いきいきとした女の子の性格そのままの文章。
こういう古い外国の児童文学作品って、登場人物がその年齢で想像するよりも大人なように思えることが多い気がするんですけど、ジューディはむしろ17歳よりは幼い感じがしました。
思ったことをそのまま書いている率直さが幼いように感じたのかもしれない。
あと最初の頃は特に、孤児院育ちで世間ずれしていない感じだったからかも。

作文の才を見込まれるだけあって、ジューディの手紙の文章はよかった。ユーモアがあって、女子学生らしい興味とか、無邪気な自己肯定感とか。
ときどき読んでいるものに影響された文体になったりしているのもかわいい。
特に好きな言葉が2箇所ありました。
「人生で、りっぱな人格を要するのは、大きな困難にぶつかった場合ではないのです。〜(中略)、毎日のつまらないできごとに、わらいながらあたっていくには、――それこそ勇気がいると思いますわ」(岩波少年文庫版p86)
というところが人生訓的にとてもよかった。
もうひとつは、恋について書いているところ。
「月の光が美しいのに、あのかたがここであたしといっしょにながめてくださらないから、あたしはあの月の光が憎いのよ」
夏目漱石(ではない)か!と思いました。月が綺麗ってたぶんこういうこと。
そしてこれに続く、「もし恋したことがおありだったら、あたしが説明する必要はありませんわね。もしおありでなかったら、あたし説明はできませんわ。」のそのとおりなんだけどなんともいえないおかしさとかわいさ。
失恋して悲しんでいるところにこういう文章を持ってくるのがジューディの性格だよねって思った。

買った服や帽子を報告してるところや、食べたお菓子の話、レモンゼリーで満たしたプールなんて、すごく女の子的でかわいい。
いっぽうで、参政権がないことを不満がったり、自分の主義を決めたり(フェビアン主義!世界史の教科書で見た)孤児院の経営について考えたり、自立した女になろうとしているところも、この時代の理想的な女子学生像なのかなと興味深く思った。
はつらつとしていて、あなたははげてますかなんて失礼な質問をしても、完璧な敬語で手紙を認められるのとか、教育されている女の子感がすごい。大学まで出たけれど、こういう言葉遣い私は身につかなかった。
ところでこの時代、女子大学を出た女の子は卒業後どういう進路についたのだろう。
ジューディは農場に行って作家やってるけど、それはどう考えても主流じゃないし。友達も働いてる感が薄かったので、地味に気になってます。

時代といえば、アメリカと日本が開戦するみたいなたとえがあってどきりとした。戦前というかWW1以前だけど、そういう雰囲気があったんだろうか。


書簡体小説だから、語り手が手紙に書かないことを読者は知りえない。だから書かれていることが全部だと思ってしまうけど、でも実際には書かれている以上のことが彼女の人生には起きている、っていうことを端的に示していたのが最後の方でジャーヴィスといい仲になっていたとあかされるところだった。
その差異があることを児童文学でやるのって、意義があるんじゃないかと思いました。
書いてあることが全てじゃないこと。行間から読み取れること以上に、作品世界には奥行きがあること。
もっと推し進めて、他人について自分から見えることはごく一部であること。その人にはその人の人生や人間関係があって、重なっているところだけを知りうる。
たとえばTwitterとかでも、ツイートにないことは考えたり行動したりしてないと思い込んでしまうこともあるけど、そうじゃないよねって改めて思った。

岩波少年文庫版(遠藤寿子訳、初版1950年)で読んだので、固有名詞の訳し方がちょっと違うのかなって思いました。
ジューディが読んだ本を挙げるところとか。
『リットル・ウィメン』は若草物語かな。塩づけのライムが出てきていたような。



少しだけ、
文筆の才能を認められて開花させる少女を、羨ましいと思ってしまう。
その資格すらないけれど。

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『さくら、うるわし』

長野まゆみの左近の桜シリーズ三作目。
いつのまにか桜蔵も大学生になっていてびっくり。
実家を離れて柾の家で暮らしながらも、相変わらずあやしいものたちをひきつけている短編が4話。

前2冊が手元にないので確証はないんだけど、前はもっと短い話がたくさん入っていたような気がします。
4話だけって少ないなという印象でした。
あと、タイトルももっと単語っぽかったような……。少なくとも、今回みたいに文章ではなかったような気がする。

内容は相変わらず、あやしく美しい。
全てを書ききるのではなく、曖昧なままで想像させるおかしみ。
長野まゆみのイメージの連鎖で描写してく感じすごく好きです。

2話目の黄泉路の書き方がすごく好き!
奪衣婆は奪った着物を仕立て直す縫製工場をやっていて、浄玻璃鏡は映写機で。どことなくレトロでお洒落な雰囲気。

桜蔵についている「怖い旦那」って誰なんだろう。柾ではないのかな?
今までに出てきた誰かしらの予約済とか?

桜蔵の出生の秘密もなんとなく秘密があると仄めかされてはいるけれども、関係があるのか……。
というより、明かされることがあるのだろうか。
なんとなくだけど、決めていないんじゃないかと思ってしまっている……。
そこに限らず、明らかであることを求める物語ではない気がするので。

第1話「その犬に耳はあるか」
夢から醒めた夢から醒めた夢的な、どこまでが幻想でどこからが現実か、入れ子構造も相まってわからなくなる。
性別のゆらぐマネキンと、犬になった男と、呪術的な紋様のボディペイントの要素がどの階層にもあらわれる。
娶るのは耳を取ること。
清千舟と妹はこのあとも出るのかと思ったらこれっきりで、ちょっとがっかり。彼らにも何かしらいびつな関係がありそうで気になる。
耳と墨というと、『よろづ春夏冬中』の「空耳」を思い出す。つながりの強いモチーフなのかしら。

第2話「この川、渡るべからず」
大雨の日、桜蔵は古着を運ぶ老女や老人と出会い、川を渡る。
渡ってはいけない川といったらあの川で、その描写が素敵だったことは上にも書いた通り。
ちょっと伏線回収的なおもしろさがありました。
バイクのブレーキ、琥珀色の真葛柄の古着、警察官……それが連鎖的につながってひとつのストーリーに収斂していくおもしろさ。
ラストの遠子と柾のやり取りも、なんとなくよかった。

第3話「ありえないことについての、たとえ」
「緑の月」と題された詩集をめぐる話。
緑の描写が鮮やかで、色が目に浮かぶ。
千可流と孝三郎の物語に普通に萌えました。詩人を目指す青年が、姉の婚約者にパトロンになってもらって1冊だけ詩集を出す代わりに身をさしだす。孝三郎の倫理観どうなのってなるんですけど、長野まゆみの世界はわりとそんな人よくいますよね……。ほかのシチュエーションだと苦手なんだけど、長野まゆみだとわりとするっと読める。でも互いに一途な話の方が好みなので、桜蔵や凛一は実は若干苦手です……。レモンタルトとか白いひつじとか好き。
真也との関係には驚きました。そうつながるのか。
2話目もだけれど、この世界では本物の女はむしろ現実的で、あやしいものを遠ざけるのか。男の身体で「女」である桜蔵の境界性が、生とも死ともつかないものたちを呼ぶのが興味深い。

第4話「その犬の飼い主に告ぐ」
弟の千菊とともに房総半島へドライブに行った桜蔵は、幼い頃に柾とともにその海岸へ出かけたことを思い出す。
千菊、幼かったイメージだったのにいつのまにか成長していて、桜蔵とともに感慨を憶える。
船田医院と斑犬、海へ流した硝子瓶の追跡調査。
若き日の柾と船田の恋路が気になりました。
というか、柾は恋人たちに心を残しているタイプなのかと少し意外に思った。
魂を運ぶ紙の船というのも、長野作品で何度か見るモチーフ。
むら雲玉子は実際にある料理なのかな。食べてみたい。

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『仏陀の鏡への道』

ニール・ケアリーもの2作目。

イギリスの田舎で隠遁生活を送っていたニールは、姑娘に惚れて会社を出奔した化学肥料の研究員を連れ戻すように命じられ、帰国。
美しい中国人女性(と化学者)の足取りを追って、ニールは香港、中国にまで潜入する。

以降、結末に関するネタバレがあるかもしれません。


プロットが前回よりも凝っていて、ストーリーはおもしろかったです。
アンフェアじゃないかと思ったところはあったけど、うーん。犯人は誰かみたいな本格ミステリではないので、そこまでフェアアンフェアを気にする性格の小説でもないんだろうなとも思うんだけど。気になってしまう……。
それに、読者にとってはこれ、主人公よりも先にどういうことかなんとなく分かってしまうよね?
その辺のバランスが、普段読むものと違うので、どうにも据わりが悪い。

「朋友会」や依頼元のカンパニーだけじゃなく、中国マフィアやら共産党員やらいろんな立場の人の思惑があって、登場人物たちは他の人たちの思惑を知らないけど、読者は書かれていることは全部読めるんですよね。
そんなわけで、ニールがずっと誰かの掌の上で踊らされているのに本人は気づいていない感じだったのでもどかしかった。
基本的に今回のニールは、美女に惚れたせいで腑抜けていたと認識してます。
だから捜査シーンのおもしろさや皮肉まじりの文章の鮮やかさは1巻目のほうが断然良かったです。

でもラストシーン(エピローグの前)はめちゃくちゃよかったです。
伍さんとニールの友情とグレアムの親心が同時に伝わってくるシーンで、これ考えたの天才的じゃないかと思う。
ハックルベリー・フィン読みたいです。読んだことないので、サリーおばさんが誰か気になる。

もしかしてこのシリーズって、いつも最後はニールがどこかしらで隠遁生活を送りはじめるオチなのかしら。


ところで今回ニールが香港に行ってたんですが、1977年の香港といえば「借りた場所に」(13・67)がちょうどこの年ですね。
作者もその立場も書きたい物語も違うので、同じ年の同じ国での出来事だからといって何というわけでもないですけど、地名や街の風景の描写に見覚えがありました。
小鳥の喫茶店とか、13・67にもあった気がするけどうろ覚え。
この裏で廉政公署が汚職と戦っているんだなと思うと、なんていうか背景に奥行きが増すような気がします。

というか、この時代の中国と香港の描写がすごく細かくて、ウィンズロウ何者なんだろうって思うレベル。
中国近代史も、そのシーンの語り手の目を通しての描写ではあるけどひと通り書いてあって、毛沢東の政策、そしてとどめの文革の回想に息苦しくなる。

李藍の過去の話は、本当に李藍にあったことだったと思うんだけど、ひとつ気になるのが、寺に行ったのは、どちらだったんだろう。
峨眉山でなんとなく初めてじゃなさそうな雰囲気があったのでちょっと気になった。
というか、彼女の物語も知りたかった。母の死の後、何を思っていたのか。自分の望んだ集団の中で、あるいは獄中で、どういう気持ちだったのか。
悪い人ではなく、弱かっただけなのだと思うから、その考えを知りたい。
あの行動は辛いけど、それがある意味では「普通」だった、その状況こそが悪だと思うので、自分も似た状況に置かれて李藍のようにいれる自信はないので、弱かった人の物語も語ってほしい。


前巻は人が死なないミステリ( )だったから油断してたら、今回はわりと軽率に人が死んでいてちょっとしんどかったです。
といっても実質物語中で人数はそこまで多くないんだけど、暴力団の下級人員が使い捨てられるみたいなかたちでの死は、しんどさが増す気がします。
あと、直接は書かれなくても近代中国史が想起させる膨大な人民の死が重くのしかかっている。
腕時計のやり取りはいわゆる死亡フラグだったんだな。あれがあったから、最初の死のインパクトが大きかった。
それは私だけじゃなく、ニールにとってもだと思う。それがその後の物語を動かす契機になったというのが、巧みで好きですが。
しかしまさかあの人が最後に出てきて死ぬとは思わなかったよ。かなりのサプライズでした。
そういえば登場人物一覧に名前あったわ。それでか。
いろんな衝撃で、その死についてはあんまりニールがショックを受けてなさそうだったのがちょっと意外というか残念。

九龍城塞で囚われて阿片漬けになったシーンもなかなかにつらかった。
前巻にいろいろ出てきた覚醒剤・麻薬より重そうだったけど、意外と簡単に抜けるもんなんですね。それはフィクション的ご都合主義なのかしら。


最後に楽しかったところの話。
成都観光案内は読んでてほのぼのしました。披露される知識にもなるほど、と思った。蜀って現在の地名だとあの辺なのか。
あと中華料理おいしそう。
アメリカ人であるニールの目を通して説明しているので、もとのかたちが想像できそうなそうでもないような、絶妙にファンタジーの食べ物感がありました。
麻婆豆腐ではなくて、スパイスのソースであえた豆腐みたいな言い回し。
餃子につける辛い胡椒のソースって何だろう。
胡麻ソースの冷たい麺料理は、胡麻ダレ冷やし中華を想像していたけれども、もしかして担担麺(汁なし)なのかしら。四川だし。
というか、作った料理から四川省の出身に違いないって推理が途中で挟まれていて、ちょっとおもしろかったです。確かに麻婆豆腐は四川料理だし、中国は広いから中華料理って一口に言っても場所によって全然違うと言うけれども。なるほど!という気持ちと同時に若干そんな簡単でいいのかと拍子抜けした。
まぁそれは全然メインでもなんでもないので、だから大丈夫なんだと思うんですけど。

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『ストリート・キッズ』

なんでタイトルは複数形なんだろう。

すごくおもしろかったです。
元ストリートキッズのニールが探偵から捜査術などすべてを教わり、大学院に通いながら探偵として活動する話。
まず何より、文体というか雰囲気というかがとても好きです。
三人称ではあるのだけれど、だいたいの視点人物は主人公であるニールなので、彼の考えがよく表れているんですね。それが、皮肉の鎧をまとった内側に幼時のトラウマや23歳なりの爽やかさを感じさせる文章ですごく良かったです。読みやすいし。
地の文の皮肉とかの感じはアドリアン・イングリッシュに似ている気がしたんですが、異論は受け付けます。キャラクターの性質や物語のジャンルは全然違うけど。

そんなわけで、これもハードボイルドだよって言われて驚いた。
そうじゃないものもあるらしいけど、基本的にはハードボイルドってタフでマッチョな男の生きざまみたいな話だと思っていたので。
ニールはタフでもマッチョでもないし、喧嘩は弱いし英文学を研究してるし。評する形容詞は「かっこいい」ではない。
でも私にとってはむしろ、タフでマッチョな男らしい男よりも、喧嘩が弱くて文学が好きで精神的に柔らかいところがあっても筋が一本通っている青年みたいなキャラクターの方が、親近感があって好ましいのです。

少年が探偵と出会って、生きる術や探偵術を教えてもらうという話なので、以前読んだ『初秋』を思い出したんだけれども、こっちの方が全然好みなのもそういう理由なんだと思う。
スペンサーも強い男だから。
あと、探偵術講座のシーンがすごくよかったです。
尾行の仕方や、ものの探し方、姿の消し方なんかを実践的に教えていて。意外とそういう捜査のノウハウを学ぶシーンって読むこと少ないなって思いました。
最近読んだのだと、円居挽のカタリは人工的な問題の解き方なのでまたちょっと違うし。

だからニールやその師匠のグレアムは捜査する探偵であって、推理する探偵ではないんですよね。というよりもこの話が、謎に対してロジックがあったり伏線が張り巡らされたりした本格ミステリではなく、行方不明の少女の居場所を足で探すタイプのミステリでした。
だからあっと驚く展開もほとんどない(父親には驚いたけど、あれも推理で知りえたわけじゃないので)し、少女を発見したのも結局は偶然みたいなものだったわけですが。
だけど、甕の水を移すように伝授された捜査方法があってそれに基づいて計画を立てて捜査をして、という部分はすごくしっかりしていたのでおもしろかった。
待ち伏せは徒労に終わったけど、文章がとてもよいので、何もせずに暑いロンドンをぐるぐる回っているだけみたいなシーンもすごくおもしろかったです。

アリーとの小屋生活のシーンもわりと好きだった。
母親の影を重ねるあたりが、切なくて胸がいっぱいになりました。
羊飼いのおじいさんが死ぬんじゃないかと若干はらはらしたんですけど、そういえばこの話は誰も死ななかったですね。よかった。
最近良い人が死ぬ話はちょっと重く感じるようになってしまって加齢を感じています。

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