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2024/05/20 (Mon)

『ヒトごろし』

京極夏彦の新刊!
しかも、土方歳三の話と聞いて楽しみにしてました。

しかし分厚いですね……。
通勤に片道1時間くらいかかるので、普段はだいたい電車の中で本読んでるんですけど、毎日持ち運ぶのは重かった……。
ベッドに仰向けになって読むのも腕が疲れるし、読むという行為が物理的に難しいなって思いました。非力なので。
最終的には、なんか、厚ければいいと思ってんじゃないか?みたいな不信感が募っててきた。厚いなら、もっと文字がみつしりしていてほしい。改行や余白が多いのは読みやすさとのバランスと見た目のこだわりかなと思うけど。せめて版面を上下にもうちょっとずつ広げれば1割くらいページ減るんじゃないかしら。いや、京極先生は組版にもこだわってらっしゃるだろうからこれがいいと思って作ってるんでしょうし、それを一読者が文句つけるのはどうかとも感じるんだけど。
紙の本派だけど、電子の方がこれは読みやすいんじゃないかとわりと思った。場所と体勢に自由が利きそう。
鉄鼠の愛蔵版でも感じたけど、あれも完全に愛蔵するための形態で読むための本ではなかった。こうやって、読むのは電子で紙の本は飾っておくファンアイテムみたいな流れになってくのかなみたいに想像して暗澹たる気分になった。そんなん、豪華装幀鎖付き本の時代に逆戻りじゃん。本は読まれるためのものだと思うのでそれってどうなのって思うんですよね。


まあ、書籍という物理媒体への愚痴はそこまでにして、内容についての感想。

タイトルどおり、ヒトごろしとしての土方歳三を描いた小説でした。
とてもおもしろかった。
歴史創作物って、史料や記録にあることはできるだけそのままでどうやって間を埋めていくか、記録されない意図や感情や人間関係をどう創造するかがおもしろいところだと思うんです。
この物語では「土方歳三はヒトごろしである」というファクターひとつがすべての事件事象の間を埋めていた。
おおまかな流れはなんとなく知っている時代の物語で、実際にあった出来事はほぼその通りに起こっているのに、土方歳三がヒトごろしだというファクターが入っていることによって、事象の見え方がガラッと変わって感じられる。
その楽しさは、ある種の推理小説を読むときに感じる興奮と似たもののような気がしました。たとえるなら、最後の1行で犯人やその意図に驚いてからの、犯人目線で書かれた同じ事件の話を読む感じ。
具体的にいうと、土方は人を殺したいから、それが許される立場になるために新選組を作り利用したという話なんですけど、その枠組み自体がとてもおもしろかった。
殺人は法で禁じられているから悪だという説は以前から京極作品でよく出てきていたけど、それをこういうかたちで書くのかと思った。

推理小説を読むときと近いおもしろさというと、山南を殺すところがめちゃくちゃ鮮やかで好きです。
山南は初登場のときから、土方にとっては殺したいけど死を受け入れる武士だから殺したくないみたいな対象として描かれていたので、でも脱走・切腹することは確定しているからどう処理するんだろうと思ってたんです。
そしたらああいう展開でとても興奮しました。

あとは最終章の雰囲気も好きです。荒涼とした土地に熱く乾いた風が吹いているかのような雰囲気。近藤が死んでからの経緯を急き立てるように回想し、その中で次々と人が死んでいく
最後は今までに殺した人の記憶が走馬灯のように浮かび上がる中で、函館の街を馬で駆けて出会い頭の敵を殺していく疾走感。そして、最期には何者でもないただのヒトごろしになって死んでいく。
めちゃくちゃかっこいい土方歳三でした。
最後の一文もかっこよすぎませんか。
ただ、涼との関係はなんとなく陳腐なものに堕してしまった感じがして、残念だった。
狂った男と狂った女の、殺す/殺されるを軸にした関係が倒錯的でこの作品には似つかわしくて良いなって思ってたんですよ。
なのに、何この最後に人の心を取り戻したかのような展開は。そんな普通っぽいの求めてなかった。
私の新選組好きの根源が昔読んだBL小説にあるので、女性キャラクターを疎外したい気持ちが一部にはあるかもしれない。
でも、今その気になったと言って駆け出すところまでは、女性キャラクターがどうとか関係なくすごく良かったんですよね。
撃たれる前に斬っていたら安心して読み追われた。
けど、土方が天邪鬼に生きたい人を殺してきた因果が巡って、為たいことも為せぬまま何者でもなく銃弾に倒れたというのも解釈としては綺麗な感じがする。


そう、私は昔少しだけミーハーに新選組が好きだったんです。
旧八木邸や壬生寺や五稜郭行ったり池田屋(跡地にある居酒屋)でイメージカクテル呑んだりしたくらいの。
初めてイメージを植えつけたのが何かはわからないけど(たぶん初めて触れたのは三谷幸喜の大河ドラマ)、自分の中の解釈と違うのが嫌だったから新選組ものは司馬遼太郎すら読んでない。今ならたぶん逆に、いろんな解釈があること自体を楽しめると思うんだけど、中高生の頃は頑なだったから。
『ヒトごろし』の土方歳三は、解釈違いとか言えないほどに別物だったので、これはこれでありだと思えたんです。
土方歳三がヒトごろしであることは大前提で、あとの物事はそこから組み立てたある種の実験的な感じがあったんですよね。
ただ、一方ですごく納得した。この土方歳三は、例の梅の花の句を詠みそう。本質的に人外で内面が空虚な性質は、あの風趣があるのかないのか即物的な句とは一致するように思えたんです。その句こそ出てこなかったけど、石翠に習って俳句をするという描写で腑に落ちる感覚がありました。

解釈違いというなら沖田の方がよほど。
理想化されたキャラクターは薄幸の美少年になりがちなのを、溝鼠って。いや実際は美少年ではなかったらしいですけどね。
視点人物の土方が嫌っているからとはいえ、確かにとても厭なやつに書かれてました。
このキャラクターだと、黒猫が斬れないと言ったとか言わないとかいう台詞も、別の意味合いをもって感じられますね。それが念頭にあって猫を殺す話を挿入したんだろうか。

賢い人外の土方は周囲の人間を基本的に見下しているので、沖田以外の人物像というか人物評もまあひどいですよね。
斎藤と永倉は比較的まともだったのは、こだわりが思考の枷になっていても莫迦ではないから生き残れたみたいな理由付けがメタ的にあるのかしら。
あとは佐々木只三郎も好感度高かったですね。強くて賢いから、この本に描かれているキャラクターとしての土方からの評価が高かったのだろう。
左之助と近藤は、頭が悪くても憎めない感じだった。近藤が出頭する前のやりとりは、察していたというのはありがちな展開だけどそれでも良いシーンだった。
こう見ていくと、沖田は別として小物や先に死んでいった人たちのほうが悪く描写されている感じがしました。繰り返しになるけど、賢いことと強いことが情のない土方の評価基準だからそういう感じになったのかなと思う。
最終的に生き残ってはいても榎本武揚も散々な書かれようだったけど。
坂本龍馬評もわりと容赦なかったですよね。立場とか考えとかの問題ではなく。
評価が二極化するイメージの慶喜は暗愚とされていて、この作品ではそうなのかと思った。
一方ラスボス的に登場した勝海舟は大人物だった。
それよりも、この勝海舟は弔堂の友達と同一人物なのかが気になる。
勝海舟が岡田以蔵を話題にしたのはまぁファンサービスなんだろう。
弔堂‐巷説‐百鬼夜行シリーズと、この世界はつながってるのかしら。

いやシリーズ間リンクっていったらとりあえずヒトでなしの話をしなくては。
流山で出てきたときから、なんとなくそれっぽいな(タイトルと版元的にも)と思っていたら中盤で荻野と名乗っていたのでやっぱりと納得した。
あの宗教の話がこれからまだ書かれていくのかしら。
胎蔵界もあるんだよね、きっと。

『ヒトでなし』では、ヒトでなしが主人公なせいで期待したようには物語が動かないことにやきもきしたんだけど、『ヒトごろし』は、起きること自体は史実として知っているからそうしたもやもやはなかった。
幕末を舞台にしたものを読んだときに、もっとみんなが幸せになれる道があったんじゃないかと思ってしまうのはいつものことなので。
むしろ、たとえば山南さんがもっと早く土方と話していても死期が早まっただけだろうし。蝦夷共和国とかはもう、あそこまで来てしまった時点でダメじゃないですか。だからこれでよかったんだと思う。

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『大いなる眠り』

ストーリーは展開が早くて、『長いお別れ』よりも楽しく読めました。
半分くらいで依頼された件とそれにまつわる殺人には方がついてて、あと何やるんだろうって思った。
いや、失踪人調査の話は最初っから出てるんだけど。だからメタ的にはその件を解決するんだろうというのはわかるんだけど。
依頼するのかしないのか、調べるのかどうかはっきりしろよって思いました。
依頼しないと言っていて、調べないと言っていて結局調べるのって、そこに至った感情や状況の変化もよくわからないので無駄な引き伸ばしのように感じられた。
ただ、その真相はおもしろかったです。


しかし何より、訳が古い!
双葉十三郎訳を読みました。訳者紹介によると大正時代生まれなことにまず驚いた。
ただでさえ翻訳ものは苦手なのに、訳が古すぎてなおさら読みにくかったです。
「将棋」に「チェス」とルビが振ってある衝撃!
ここまで訳が古いと、原文と村上春樹と3つ比べてみたいなと思いました。
あと、「うふう」。これは何なの?
文脈的には、都合の悪い質問をごまかすときの間投詞だとは思うんですけど。ユダの窓の「がぶりがぶり」以来の珍妙な擬音語。
訳の話をもうちょっとすると、役割語の暗示する対象って時代によって違うのかしら。
「うふう」もそうなんだけど、語尾やちょっとした言葉遣いが、想像していたフィリップ・マーロウ像とずれていたんですよね。思ってたよりも、田舎もののチンピラっぽい言葉遣いだった。
訳された当初、あるいは書かれた原語ではもうちょっと違うイメージをもたせてたのが、今読むとそう感じられるのだろうかと気になりました。

これも時代なのかもしれないけど、依頼人のスターンウッド将軍が今にも死にそうな老人として描かれているのにまだ59歳だったのにびっくりしました。
還暦も迎えてないじゃん!
1930年代アメリカの平均寿命的には、これが普通だったのか。もちろん個人差のあることだから、59歳で死にそうなほどに衰弱してる人がいるのはおかしくないんだけど、早すぎる感覚がありました。それならエクスキューズあるんじゃないか、って。
でもエクスキューズも何も、全体的にわりと説明を飛ばしている書き方だからな。


とはいえ、ラストの文章は素敵だった。大いなる眠り云々のあたり。
『長いお別れ』よりは、持ってまわった言い回しも少なくて、訳の古さをのぞけば読みやすい。
チャンドラーの文章に感じるお洒落さって、持ってまわった言い回しこそにあるのかもしれないなと思いました。
比喩がいったいどういう性質を喩えてるのかよくわからないのとか、どういう意味なんだろうと考えるのでそこで染み込んでゆく感じ。
会話が表面的な言葉と意図が違うように進むもたぶんそういう効果があるんだろうけど、そちらはお洒落と思うよりもやもやするほうが多い。地の文は多少ニュアンスがわからなくても読み飛ばせるけど、会話は読み飛ばせないので。


古くて有名な作品を読むと、おもしろいけどそこまで?って思ってしまうことが多い。
この作品に関してもそうでした。
チャンドラー、フィリップ・マーロウといえば本当にいろんな作家や作品が影響を受けてるものじゃないですか。
だから期待して読んだのに、期待していたほどにはかっこよくなかった。
それはあるいは上に書いたように訳の醸し出す雰囲気のせいかもしれない。あるいは、私の求めていたかっこよさは別のベクトルだったのかもしれない。
映画化しているみたいだし、そのイメージなのかな。
驚くような真相や緊迫したサスペンスというのもそこまでなかったように思う。むしろ、次々と起こる事象に翻弄されていたような印象。窮地に陥っても、なんとかするのだろうと思ってハラハラすることもなかった。
だから、どうしてこんなにも多くの人たちが好きなんだろうということが気になるのです。
先駆者としての意味が大きいというのなら、それは同時代にいない私には会得できない感覚だと思う。理解と納得はできるとしても。
でも同年代でもチャンドラー好きって人はいるから、パイオニアってだけじゃない何かがあるんだろうと思います。
本に求めてるおもしろさが違うのだろうか。

解説には「生き生きとした人間の描写」が魅力と書いてあったけど、これはこれでコマっぽい気がするんですよね。マーロウ以外。
スターンウッド家の二人の娘とか、本当に生き生きとした人間か?金持ちのキチガイ女としてはけっこうテンプレート的な性格じゃないか?と思うわけですよ。

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『山と妖怪 ドイツ山岳伝説考』

先月読んだ、プロイスラーのリューベツァール物語集を翻訳したドイツ文学研究者による、山の伝説に関する本。論文なのかな、一応?
もちろん山の妖怪としてリューベツァールにも言及してます。2章くらい割かれてました。

ただ、私に近世ドイツや西洋思想に関する素養がなかったせいで、すごく読みにくかった。基礎教養って大事ですね。もっと勉強しなきゃ。
……大学生のときに読んでたら、もうちょっと関連文献もたどりやすかったのに。という後悔もある。

研究史をまとめている部分はそれでもまだ理解できたというか、そういうものなのかと興味深く受け取れました。
たとえばドイツ民俗学では、習俗や伝説のゲルマン古代との接続はナチズムに利用された過去があるから、慎重さが求められているのとか、言われればそうだけれどもあんまり考慮したことがなかった。
一方で、この本でのこの著者の主張というか結論が何なのかわからなかった。何なのかわからなかったというのは、結論として書いてあったことの意味が理解できなかったということではなく、どこに著者の主張にあたることが書いてあったのかわからなかったという意味です。特に第一部の第二章と第三章!あれは近世ドイツの鉱山世界はそういう観念の場所だったよ、っていうだけなのかしら。
私が不勉強で読解力がないのが悪いんですが。
研究史のまとめではなくて自分の主張になると筆が乗って文章がふわっとするから、オブラートの中にある核の部分がわからなかったのかもしれないというのも若干思ってしまいます……。
この辺で結論っぽいこと言うのかなってときに日本の文学作品とかを例示するのが本当に意味が分からなかったんです。え、それって関係あるの?って思った。
それとも、この本に載っている文章は研究史のまとめと紹介が目的だったのかなぁ。
ちょっと調べてみたら、初出の『希土』って雑誌は論文もそれ以外も載るものらしいから、やっぱり紹介って面も強いのかも。

単純に、この著者の方(でなくてもいいんだけど)がプレトーリウスのリューベツァール物語集を翻訳してくれないかしら。
っていうかむしろ、シレジア側での伝承を読みたいんだけど。ドイツ文学の範囲外になるとはいえ特に言及されてなかったし、日本語でとなるとますます難しいのかしら。
グリムの伝説集ならまだ手軽に読めるかな。リューベツァールは載ってないらしいけども。


この前のプロイスラーの物語集では軽く読み流してしまっていたけれども、この本ではリューベツァールが医薬に通じた性格を持つということがクローズアップされていたんですね。
リューベツァールが住処としていた山リーゼンゲビルゲでは、稀少な薬草類が群生していて、それを使った薬の製造販売業が栄えていた。その薬は「17世紀のライプツィヒで大市(メッセ)まで運ばれ、そこで商いをする小店には、宣伝広告としてリューベツァールの絵が飾られたという」(p289)
リューベツァールはライプツィヒで「民間の医術者たちの『守護霊、家精(spiritus familiaris)もしくはなじみの偶像神として』あがめられている」(p300)
とまあ、引用の引用になるんですが、これってすごくないですか?
というのはもちろん、リベザルがリューベツァールだとして、という前提で。ルーツとしてもともと薬師の性格を持ってたって、すごくテンション上がる。
きっとそういう性格の妖怪だから採用されたんだろうということなんだけれども。


あとおもしろかったのは、ホレさまの章で紹介されていた、デュメジルの「三機能構造」。インド・ヨーロッパ語族には「聖性と主権性/戦闘性/豊饒性から成る三幅対」が神話や社会構造などあらゆるところに存在するという説。
思ったのは、その三権分立ってインド・ヨーロッパ語族に限らないのではっていうことなんですけど。
アマテラス/スサノオ/ツクヨミの三貴子もそのパターンに当てはまるのでは。それぞれ主権/戦闘/豊饒っぽい。
ほかの要素もあるし、なんていうかその性格付けがインド・ヨーロッパ語圏から移入したことも考えられるから日本人にも三機能構造が当てはまるってことはないと思いますが。
三柱の神のセットでも、造化三神とかニニギの子供たちは三機能構造よりもむしろ河合速雄の中空構造の方がすんなりと当てはまる気がしますし。

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『6番線に春は来る。そして今日、君はいなくなる。』

高校生男女4人の物語。
ザ・青春!って感じで、読んでるこっちがむずがゆくなる雰囲気でした。
ファンタジー的なことや非現実的なことは何も起こらない、等身大の高校生の話で、ラノベってこういうのもあるんだと意外に感じました。普段あまり読まないので知らないだけで、意外と王道なのかもしれないですが。
……地に足がついている普通の話に見えて、突如登場するギ=マニュエルはなんだかよく分からないけど。

キーワードは、「環境の奴隷」と誰にでもいろいろ事情はある、かなぁ。
4人それぞれの一人称短編が一つずつ(と、プロローグとエピローグ)あるので、ある人から見た印象は実態とは異なっていたり、事情が知れて見方が変わったりとおもしろい。
何も考えてないような人や順風満帆に見える人が、それでも悩みとかあるしいろいろその人なりに考えてたりするんだっていうのをきちんと書いてたところは、すごく好きです。
悩みのレベルというか、直面している問題は人によって大きかったり小さかったりするけど、だからといって何も悩みがないわけじゃないんだというのが。当たり前のことではあるのに、ときどきそういうことを忘れてしまいがちだから。

「環境の奴隷」という言葉にはすごくどきっとした。
シチュエーションが整っていると、まわりに流されて気持ちが自分の意志ではコントロールできなくなる。というような意味。たとえば「好きでもない映画でも猫が死ぬと涙が出るとか」
きっと誰しもそういうところはあるもので、それを一語で簡潔に表しているから。
その言葉は、(後にならないと分からないけれども)生活環境が悪いなかでそれに押しつぶされないよう流されないようにと生きてきたセリカの口から出てきていたからこそ、映えていたのかもしれない。
そしてわりと4人とも、まわりに流されたり環境に抵抗しようとしていたりする話だったなぁと思いました。


前2作では舞城王太郎のような圧倒的な文章に殴られる感じだったのが今作では文章の密度がそこまで濃くなくて、それがむしろ瑞々しい普通の高校生らしさが強くなっていた気がします。
あと、視点人物が違えば語られる情報の取捨選択や言葉選びが違うのは当然なんだけれども、その切り替えが自然で、その点はおにぎりとひとくいのときから好きな部分だったので、今回の形式でより鮮明になっていたのが良かった。


前にも言ったかもしれませんが、私にとってこの作家さんの本を読むときの感覚って、辻村深月が好きだったときの感覚と少し似ている気がするんです。
作品自体が似ているというよりは、登場人物の立場や考え方に自分を投影しやすい。その上で登場人物に共感していくので、心情描写や警句が心に刺さる。
そういう意味では、この作品の舞台立てはとても良かった。良かったというのは、自分自身を重ねやすかった。地方の自称進学校。何もない田舎で都会に憧れる感覚。田舎を、何もないと言ってしまう感覚。
辻村深月も初期は地方の進学校が舞台だったから、っていうのもあったのかもしれませんが。
自分語りになるけど、私が高校卒業まで住んでいたところも地方で、香衣の住んでいるところよりは発展しているけど通学できる範囲にパルコやスタバなんてなかった(今はスタバはできたらしい)
だから香衣の感覚がなんとなく自分のものとして理解しやすかったんです。

セリカはもうちょっとどろどろした子なのかなと思っていたけれども、家庭環境が複雑なだけで別に普通の女の子でしたね。ちょっとがっかり。
頭が良いと思っていても所詮高校生なりの視野の狭さがあっただけみたいな。
一歩引いて客観的に俯瞰しているようで何も見えてなかったみたいなカタストロフィがほしかった。
とはいえ4話目のラストシーンはもう最高でした。最後2ページのあの文章、雰囲気。
それにしても、おばあちゃんはフェードアウトしてそのままなの?母親が蒸発した時点で連絡取ったりとかしなかったの?と地味に気になる。

1話目での香衣のセリカに対する理想化がすごいのが、4話目で実態が描かれることによってゆがみが明らかになるんだけれども、女子の友情ってこういうところあるよねって感じでとても良かった。
4話目を経てのエピローグでは互いに等身大そのままを見ていて、それはそれで関係性として安定してよかったねと思うのですが。

龍輝くんのお父さんが地味にいいキャラで、ちょっと気になりました。

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『犬は勘定に入れません』

新年最初の読書は、干支に合わせて(笑)ずっと気になっていたこの作品を。
昔ときどき見ていた同人サイトの方がこの作品を好きらしく、ブログ等で言及されることが多くて、いつか読んでみたいと思ったのが初めて知ったときでした。それから10年以上が経ってそのサイトもほぼなくなっていたわけなのですが。
それはともかく、すごく楽しい小説でした!

作品の舞台は2057年。タイムトラベルが可能になり、過去に遡って歴史を学ぶ航時史学が学ばれている。
主人公もそんな史学生の一人で、コヴェントリー大聖堂再建のため「主教の鳥株」を探す任務を受けて1940年で大聖堂の焼跡を掘り返したり、1888年でわがままなお嬢様の結婚するべき相手を探したりする。

ざっくりと設定を説明するとこんな感じ。
SFでミステリでボーイミーツガールでコメディで時代小説でもあり、と盛りだくさん。
そして語り口がものすごく軽快でユーモアがあって、読んでいてとにかく楽しかったです。

「舞台は2057年」とさっき書いたんだけどそれは作中の「現代」で、物語の大半はタイムトラベル先の1888年で進行していきます。
そんなわけで、ヴィクトリア朝の文化や食事やひらひらの衣装とかの描写が多くて、それも楽しい。
シェイクスピア、テニスンほか古典からの引用も多いし、ミステリへの言及もある。ジーヴズの名前も出てくる。
ヒロインのヴェリティがもともと1930年代が担当でセイヤーズやクリスティーを読んでいたっていう設定!彼女がいたのがイギリスで良かったなって思いました。アメリカに派遣されていたらクイーンだっただろうし、そうだとしたらこんなほのぼのとした話にはならなかっただろうから。
セイヤーズ、1冊くらいしか読んでない気がするのでもうちょっと読んでみようかと思いました。
ところで『月長石』のネタバレをされたような気がするんですが……。あとがきで大丈夫って書いてあったから信じるけど大丈夫なんですか?

キャラクターもとても良かったです。全体的にキャラが立っていて。
ヴェリティがまずかわいいし、テレンスもぽやぽやしてるけど好青年だし、執事は普通にかっこいい。ので、わりと、フラグは立ってたなと思ったけど、まさかそこでその話がつながるとは、というのは驚きだった。
ブルドーザーみたいに計画を推し進めていくレイディ・シュラプネルや、スピリチュアル好きの婦人や金魚オタクの大佐や甘やかされたわがままお嬢様も、鼻持ちならないとは感じるけれどもそういうキャラとして作られているんだろうなと思うし、だとしたら大成功なんじゃない?
犬と猫も超かわいい。仔猫の群れにもだえた。

恋愛ものとしても、きゅんきゅんしました。ピーター卿とハリエットになぞらえているところが、それまでの話があってのそれだったのでとても良い。

ミステリというかSFというか、主教の鳥株の行方を説明するところや、齟齬の謎を解くところは筋が通った論理で面白かったです。
しっかりした論理化とか、伏線がとかは長編なのと謎解き以外の要素が多すぎてあんまり覚えてなかったのでなんとも言えないですが。
どこまでが歴史というカオス系連続体の意図なのか、どこまで計算されていることなのかについて考えだすと途方もなく広がっていくような気がする。

ひとつだけ難点があるとすれば、冒頭で状況が全然分からないところかな。
主人公がタイムトラベルのしすぎでタイムラグを患い、音声の識別困難や過度の感傷癖に悩まされているせいで、状況が全く見えない。
主人公にも分かっていないんだから、読者であるこちらにも分からないのは当然といえば当然なのだけれども、そこが少しとっつきにくかった。あと、ネッドがぼんやりしすぎていて軽くイラっとした。
作中の世界(2057年現在)の設定とかも、初めに説明されるということがなくって。というか、積極的に説明されてはいなくって、ふとした拍子に猫が絶滅しているとか、パンデミックがあったとかが分かるだけだった。
あと、「主教の鳥株」というのがサブタイトルにある「ヴィクトリア朝花瓶」だっていうのも最初は全然わからなくて、Googleさんに聞いたらそういう旨の知恵袋とかが出てきて、みんな分からないんだなって思いました。

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