京極夏彦の新刊!
しかも、土方歳三の話と聞いて楽しみにしてました。
しかし分厚いですね……。
通勤に片道1時間くらいかかるので、普段はだいたい電車の中で本読んでるんですけど、毎日持ち運ぶのは重かった……。
ベッドに仰向けになって読むのも腕が疲れるし、読むという行為が物理的に難しいなって思いました。非力なので。
最終的には、なんか、厚ければいいと思ってんじゃないか?みたいな不信感が募っててきた。厚いなら、もっと文字がみつしりしていてほしい。改行や余白が多いのは読みやすさとのバランスと見た目のこだわりかなと思うけど。せめて版面を上下にもうちょっとずつ広げれば1割くらいページ減るんじゃないかしら。いや、京極先生は組版にもこだわってらっしゃるだろうからこれがいいと思って作ってるんでしょうし、それを一読者が文句つけるのはどうかとも感じるんだけど。
紙の本派だけど、電子の方がこれは読みやすいんじゃないかとわりと思った。場所と体勢に自由が利きそう。
鉄鼠の愛蔵版でも感じたけど、あれも完全に愛蔵するための形態で読むための本ではなかった。こうやって、読むのは電子で紙の本は飾っておくファンアイテムみたいな流れになってくのかなみたいに想像して暗澹たる気分になった。そんなん、豪華装幀鎖付き本の時代に逆戻りじゃん。本は読まれるためのものだと思うのでそれってどうなのって思うんですよね。
まあ、書籍という物理媒体への愚痴はそこまでにして、内容についての感想。
タイトルどおり、ヒトごろしとしての土方歳三を描いた小説でした。
とてもおもしろかった。
歴史創作物って、史料や記録にあることはできるだけそのままでどうやって間を埋めていくか、記録されない意図や感情や人間関係をどう創造するかがおもしろいところだと思うんです。
この物語では「土方歳三はヒトごろしである」というファクターひとつがすべての事件事象の間を埋めていた。
おおまかな流れはなんとなく知っている時代の物語で、実際にあった出来事はほぼその通りに起こっているのに、土方歳三がヒトごろしだというファクターが入っていることによって、事象の見え方がガラッと変わって感じられる。
その楽しさは、ある種の推理小説を読むときに感じる興奮と似たもののような気がしました。たとえるなら、最後の1行で犯人やその意図に驚いてからの、犯人目線で書かれた同じ事件の話を読む感じ。
具体的にいうと、土方は人を殺したいから、それが許される立場になるために新選組を作り利用したという話なんですけど、その枠組み自体がとてもおもしろかった。
殺人は法で禁じられているから悪だという説は以前から京極作品でよく出てきていたけど、それをこういうかたちで書くのかと思った。
推理小説を読むときと近いおもしろさというと、山南を殺すところがめちゃくちゃ鮮やかで好きです。
山南は初登場のときから、土方にとっては殺したいけど死を受け入れる武士だから殺したくないみたいな対象として描かれていたので、でも脱走・切腹することは確定しているからどう処理するんだろうと思ってたんです。
そしたらああいう展開でとても興奮しました。
あとは最終章の雰囲気も好きです。荒涼とした土地に熱く乾いた風が吹いているかのような雰囲気。近藤が死んでからの経緯を急き立てるように回想し、その中で次々と人が死んでいく
最後は今までに殺した人の記憶が走馬灯のように浮かび上がる中で、函館の街を馬で駆けて出会い頭の敵を殺していく疾走感。そして、最期には何者でもないただのヒトごろしになって死んでいく。
めちゃくちゃかっこいい土方歳三でした。
最後の一文もかっこよすぎませんか。
ただ、涼との関係はなんとなく陳腐なものに堕してしまった感じがして、残念だった。
狂った男と狂った女の、殺す/殺されるを軸にした関係が倒錯的でこの作品には似つかわしくて良いなって思ってたんですよ。
なのに、何この最後に人の心を取り戻したかのような展開は。そんな普通っぽいの求めてなかった。
私の新選組好きの根源が昔読んだBL小説にあるので、女性キャラクターを疎外したい気持ちが一部にはあるかもしれない。
でも、今その気になったと言って駆け出すところまでは、女性キャラクターがどうとか関係なくすごく良かったんですよね。
撃たれる前に斬っていたら安心して読み追われた。
けど、土方が天邪鬼に生きたい人を殺してきた因果が巡って、為たいことも為せぬまま何者でもなく銃弾に倒れたというのも解釈としては綺麗な感じがする。
そう、私は昔少しだけミーハーに新選組が好きだったんです。
旧八木邸や壬生寺や五稜郭行ったり池田屋(跡地にある居酒屋)でイメージカクテル呑んだりしたくらいの。
初めてイメージを植えつけたのが何かはわからないけど(たぶん初めて触れたのは三谷幸喜の大河ドラマ)、自分の中の解釈と違うのが嫌だったから新選組ものは司馬遼太郎すら読んでない。今ならたぶん逆に、いろんな解釈があること自体を楽しめると思うんだけど、中高生の頃は頑なだったから。
『ヒトごろし』の土方歳三は、解釈違いとか言えないほどに別物だったので、これはこれでありだと思えたんです。
土方歳三がヒトごろしであることは大前提で、あとの物事はそこから組み立てたある種の実験的な感じがあったんですよね。
ただ、一方ですごく納得した。この土方歳三は、例の梅の花の句を詠みそう。本質的に人外で内面が空虚な性質は、あの風趣があるのかないのか即物的な句とは一致するように思えたんです。その句こそ出てこなかったけど、石翠に習って俳句をするという描写で腑に落ちる感覚がありました。
解釈違いというなら沖田の方がよほど。
理想化されたキャラクターは薄幸の美少年になりがちなのを、溝鼠って。いや実際は美少年ではなかったらしいですけどね。
視点人物の土方が嫌っているからとはいえ、確かにとても厭なやつに書かれてました。
このキャラクターだと、黒猫が斬れないと言ったとか言わないとかいう台詞も、別の意味合いをもって感じられますね。それが念頭にあって猫を殺す話を挿入したんだろうか。
賢い人外の土方は周囲の人間を基本的に見下しているので、沖田以外の人物像というか人物評もまあひどいですよね。
斎藤と永倉は比較的まともだったのは、こだわりが思考の枷になっていても莫迦ではないから生き残れたみたいな理由付けがメタ的にあるのかしら。
あとは佐々木只三郎も好感度高かったですね。強くて賢いから、この本に描かれているキャラクターとしての土方からの評価が高かったのだろう。
左之助と近藤は、頭が悪くても憎めない感じだった。近藤が出頭する前のやりとりは、察していたというのはありがちな展開だけどそれでも良いシーンだった。
こう見ていくと、沖田は別として小物や先に死んでいった人たちのほうが悪く描写されている感じがしました。繰り返しになるけど、賢いことと強いことが情のない土方の評価基準だからそういう感じになったのかなと思う。
最終的に生き残ってはいても榎本武揚も散々な書かれようだったけど。
坂本龍馬評もわりと容赦なかったですよね。立場とか考えとかの問題ではなく。
評価が二極化するイメージの慶喜は暗愚とされていて、この作品ではそうなのかと思った。
一方ラスボス的に登場した勝海舟は大人物だった。
それよりも、この勝海舟は弔堂の友達と同一人物なのかが気になる。
勝海舟が岡田以蔵を話題にしたのはまぁファンサービスなんだろう。
弔堂‐巷説‐百鬼夜行シリーズと、この世界はつながってるのかしら。
いやシリーズ間リンクっていったらとりあえずヒトでなしの話をしなくては。
流山で出てきたときから、なんとなくそれっぽいな(タイトルと版元的にも)と思っていたら中盤で荻野と名乗っていたのでやっぱりと納得した。
あの宗教の話がこれからまだ書かれていくのかしら。
胎蔵界もあるんだよね、きっと。
『ヒトでなし』では、ヒトでなしが主人公なせいで期待したようには物語が動かないことにやきもきしたんだけど、『ヒトごろし』は、起きること自体は史実として知っているからそうしたもやもやはなかった。
幕末を舞台にしたものを読んだときに、もっとみんなが幸せになれる道があったんじゃないかと思ってしまうのはいつものことなので。
むしろ、たとえば山南さんがもっと早く土方と話していても死期が早まっただけだろうし。蝦夷共和国とかはもう、あそこまで来てしまった時点でダメじゃないですか。だからこれでよかったんだと思う。
[4回]
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