「犬は勘定に入れません」(コニー・ウィリス)を読んで元ネタ(?)的なこっちも読んでみたかったんですけど、犬勘定読んでからもう半年近く経っているっていうね……。
章の初めにダイジェストがあるのも、ここからきていた形式だったんですね。
新訳が出ただか出るだかという話も聞いた気がしますが、丸谷才一訳です。
三人の男(犬は勘定に入れずに)がテムズ川をボートで小旅行する話。
ドタバタあり美文調の風景描写ありで、クスリとする感じでとてもおもしろかったです。
あと、思ったより全然読みやすかった。
ユーモア小説だからですかね。古いし翻訳だしという二重苦にもかかわらず、文章を追うだけじゃなくて普通ににやっとできました。1章あたりが短かったのも、読みやすさの原因かもしれない。
とはいえ、英国史や地理に関する記述は知識に乏しいので厳しいものがありましたが……。
はじめは彼らがどこからどこまで行くつもりなのかすらよくわかってなかったからね。いや、でも結局そこはどうでもいいんじゃないかという気もするんですけど。
川を漕いでいく間に、いろんな話が挿入されていく小説で、そこの語りがおもしろかったので。
イギリスの人は大量の親戚や友達がいて、何かあれば「そうそう知り合いのあの人もね……」みたいな話をするんだな、というイメージが刻まれました。ミス・マープルもそうだし。
いやほんと、この小説の筋運びはだいたいそんな感じなんです。
実際起こっていたことが半分、歴史や地理的な解説がちょっと、残りは以前経験したことや知人の話の笑い話みたいな。
あと意外と出発までが長かったです。
なんとなく犬は勘定に入れませんのイメージで、三人の男たちは学生か高等遊民だと思い込んでいたので、ジョージがシティで働いているってのにまずびっくりしました。思ったよりいい年なのかもしれない、この人たち。え、それでこの生活力のなさってどうなの……?19世紀イギリスではありだったのかしら。でもどっちにしろお金に困ってなさそうだし、仕事していても高等遊民なんじゃないかしら。
だって仕事に関する主人公の言い分がすごかった。
「ぼくは仕事が大好きだ。何時間も坐りこんで、仕事を眺めていることができる位なのだ。」
と言って、「愛」の名のもとに仕事をしないということを言い立てている。(第15章)
これは普通の仕事している人じゃないでしょう。
主人公は明らかに著者自身なので、作家ならこういう主張もありなのかしら?
主人公含む三人の言動の何がおもしろいかって、客観性がないことなんじゃないのかなって思った。
冒頭の致命的な百七の病気にかかっているという発見からしてそうだった。
客観的に、物理的に、現実的には全然そんなことないなんだけど本人は途方もないことを思い込んでいる(ように読める)ことのギャップによるおもしろみ。
あといろんなものを擬人化しているのも滑稽さをかもしだしていた。
第10章の湯沸しの抵抗とか。マーフィーの法則的に、見ているとなかなかお湯が沸かないもんだけど、それをこういう風に書くとおもしろさが増す。
で、その後に続く胃袋の擬人化では、滑稽味を通り越して一種の風刺のような人生訓のようなものまで感じました。
われわれは胃袋の哀れな奴隷に過ぎない。
そして彼らみんな性格が悪いからね!
いかに自分が楽かを考え、他人の失敗を笑い、自分が害を被ればひどく罵る。
その様子もまたおもしろく読んだところのひとつでした。
主人公も地の文だと一人称「ぼく」だけど、発語では「おれ」なんだよね。最初ちょっと面食らったけど、実際の会話はくだけた言葉の方が似合ってそうな雰囲気だった。
オチにはちょっとびっくりしたけど、普通に旅を終えるよりも「らしい」気がしました。
好きなシーンはいろいろありました。
第2章の「夜」の詩的表現とか、第5章の駅で汽車探しからの南西鉄道とのやりとりとか、第6章の今日の安物が未来の骨董品となるかについての瞑想とか、
パイン缶との格闘とか(そういえばもうパイナップルも缶詰も日常的にあるんですね)、ヘンリー8世時代のイギリス国民の試練とか、みんなが釣った石膏の魚とか、etc……。
パイン缶もだけど、19世紀イギリスの生活がこうだったのかなとわかるのも興味深ったです。
ボートで川を遡るときって、漕ぐだけじゃなくて曳くんだとか、テムズ河に閘門がたくさんあるのかとか、墓を見るのが流行してたのかとか。
ネッドがすれ違ったのってどこでだったっけと思いながら読んだけれども、あんまりピンとこなかった。イフリーとオックスフォードの間だったような気もするけど。
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