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2024/05/20 (Mon)

『大いなる眠り』

ストーリーは展開が早くて、『長いお別れ』よりも楽しく読めました。
半分くらいで依頼された件とそれにまつわる殺人には方がついてて、あと何やるんだろうって思った。
いや、失踪人調査の話は最初っから出てるんだけど。だからメタ的にはその件を解決するんだろうというのはわかるんだけど。
依頼するのかしないのか、調べるのかどうかはっきりしろよって思いました。
依頼しないと言っていて、調べないと言っていて結局調べるのって、そこに至った感情や状況の変化もよくわからないので無駄な引き伸ばしのように感じられた。
ただ、その真相はおもしろかったです。


しかし何より、訳が古い!
双葉十三郎訳を読みました。訳者紹介によると大正時代生まれなことにまず驚いた。
ただでさえ翻訳ものは苦手なのに、訳が古すぎてなおさら読みにくかったです。
「将棋」に「チェス」とルビが振ってある衝撃!
ここまで訳が古いと、原文と村上春樹と3つ比べてみたいなと思いました。
あと、「うふう」。これは何なの?
文脈的には、都合の悪い質問をごまかすときの間投詞だとは思うんですけど。ユダの窓の「がぶりがぶり」以来の珍妙な擬音語。
訳の話をもうちょっとすると、役割語の暗示する対象って時代によって違うのかしら。
「うふう」もそうなんだけど、語尾やちょっとした言葉遣いが、想像していたフィリップ・マーロウ像とずれていたんですよね。思ってたよりも、田舎もののチンピラっぽい言葉遣いだった。
訳された当初、あるいは書かれた原語ではもうちょっと違うイメージをもたせてたのが、今読むとそう感じられるのだろうかと気になりました。

これも時代なのかもしれないけど、依頼人のスターンウッド将軍が今にも死にそうな老人として描かれているのにまだ59歳だったのにびっくりしました。
還暦も迎えてないじゃん!
1930年代アメリカの平均寿命的には、これが普通だったのか。もちろん個人差のあることだから、59歳で死にそうなほどに衰弱してる人がいるのはおかしくないんだけど、早すぎる感覚がありました。それならエクスキューズあるんじゃないか、って。
でもエクスキューズも何も、全体的にわりと説明を飛ばしている書き方だからな。


とはいえ、ラストの文章は素敵だった。大いなる眠り云々のあたり。
『長いお別れ』よりは、持ってまわった言い回しも少なくて、訳の古さをのぞけば読みやすい。
チャンドラーの文章に感じるお洒落さって、持ってまわった言い回しこそにあるのかもしれないなと思いました。
比喩がいったいどういう性質を喩えてるのかよくわからないのとか、どういう意味なんだろうと考えるのでそこで染み込んでゆく感じ。
会話が表面的な言葉と意図が違うように進むもたぶんそういう効果があるんだろうけど、そちらはお洒落と思うよりもやもやするほうが多い。地の文は多少ニュアンスがわからなくても読み飛ばせるけど、会話は読み飛ばせないので。


古くて有名な作品を読むと、おもしろいけどそこまで?って思ってしまうことが多い。
この作品に関してもそうでした。
チャンドラー、フィリップ・マーロウといえば本当にいろんな作家や作品が影響を受けてるものじゃないですか。
だから期待して読んだのに、期待していたほどにはかっこよくなかった。
それはあるいは上に書いたように訳の醸し出す雰囲気のせいかもしれない。あるいは、私の求めていたかっこよさは別のベクトルだったのかもしれない。
映画化しているみたいだし、そのイメージなのかな。
驚くような真相や緊迫したサスペンスというのもそこまでなかったように思う。むしろ、次々と起こる事象に翻弄されていたような印象。窮地に陥っても、なんとかするのだろうと思ってハラハラすることもなかった。
だから、どうしてこんなにも多くの人たちが好きなんだろうということが気になるのです。
先駆者としての意味が大きいというのなら、それは同時代にいない私には会得できない感覚だと思う。理解と納得はできるとしても。
でも同年代でもチャンドラー好きって人はいるから、パイオニアってだけじゃない何かがあるんだろうと思います。
本に求めてるおもしろさが違うのだろうか。

解説には「生き生きとした人間の描写」が魅力と書いてあったけど、これはこれでコマっぽい気がするんですよね。マーロウ以外。
スターンウッド家の二人の娘とか、本当に生き生きとした人間か?金持ちのキチガイ女としてはけっこうテンプレート的な性格じゃないか?と思うわけですよ。

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『6番線に春は来る。そして今日、君はいなくなる。』

高校生男女4人の物語。
ザ・青春!って感じで、読んでるこっちがむずがゆくなる雰囲気でした。
ファンタジー的なことや非現実的なことは何も起こらない、等身大の高校生の話で、ラノベってこういうのもあるんだと意外に感じました。普段あまり読まないので知らないだけで、意外と王道なのかもしれないですが。
……地に足がついている普通の話に見えて、突如登場するギ=マニュエルはなんだかよく分からないけど。

キーワードは、「環境の奴隷」と誰にでもいろいろ事情はある、かなぁ。
4人それぞれの一人称短編が一つずつ(と、プロローグとエピローグ)あるので、ある人から見た印象は実態とは異なっていたり、事情が知れて見方が変わったりとおもしろい。
何も考えてないような人や順風満帆に見える人が、それでも悩みとかあるしいろいろその人なりに考えてたりするんだっていうのをきちんと書いてたところは、すごく好きです。
悩みのレベルというか、直面している問題は人によって大きかったり小さかったりするけど、だからといって何も悩みがないわけじゃないんだというのが。当たり前のことではあるのに、ときどきそういうことを忘れてしまいがちだから。

「環境の奴隷」という言葉にはすごくどきっとした。
シチュエーションが整っていると、まわりに流されて気持ちが自分の意志ではコントロールできなくなる。というような意味。たとえば「好きでもない映画でも猫が死ぬと涙が出るとか」
きっと誰しもそういうところはあるもので、それを一語で簡潔に表しているから。
その言葉は、(後にならないと分からないけれども)生活環境が悪いなかでそれに押しつぶされないよう流されないようにと生きてきたセリカの口から出てきていたからこそ、映えていたのかもしれない。
そしてわりと4人とも、まわりに流されたり環境に抵抗しようとしていたりする話だったなぁと思いました。


前2作では舞城王太郎のような圧倒的な文章に殴られる感じだったのが今作では文章の密度がそこまで濃くなくて、それがむしろ瑞々しい普通の高校生らしさが強くなっていた気がします。
あと、視点人物が違えば語られる情報の取捨選択や言葉選びが違うのは当然なんだけれども、その切り替えが自然で、その点はおにぎりとひとくいのときから好きな部分だったので、今回の形式でより鮮明になっていたのが良かった。


前にも言ったかもしれませんが、私にとってこの作家さんの本を読むときの感覚って、辻村深月が好きだったときの感覚と少し似ている気がするんです。
作品自体が似ているというよりは、登場人物の立場や考え方に自分を投影しやすい。その上で登場人物に共感していくので、心情描写や警句が心に刺さる。
そういう意味では、この作品の舞台立てはとても良かった。良かったというのは、自分自身を重ねやすかった。地方の自称進学校。何もない田舎で都会に憧れる感覚。田舎を、何もないと言ってしまう感覚。
辻村深月も初期は地方の進学校が舞台だったから、っていうのもあったのかもしれませんが。
自分語りになるけど、私が高校卒業まで住んでいたところも地方で、香衣の住んでいるところよりは発展しているけど通学できる範囲にパルコやスタバなんてなかった(今はスタバはできたらしい)
だから香衣の感覚がなんとなく自分のものとして理解しやすかったんです。

セリカはもうちょっとどろどろした子なのかなと思っていたけれども、家庭環境が複雑なだけで別に普通の女の子でしたね。ちょっとがっかり。
頭が良いと思っていても所詮高校生なりの視野の狭さがあっただけみたいな。
一歩引いて客観的に俯瞰しているようで何も見えてなかったみたいなカタストロフィがほしかった。
とはいえ4話目のラストシーンはもう最高でした。最後2ページのあの文章、雰囲気。
それにしても、おばあちゃんはフェードアウトしてそのままなの?母親が蒸発した時点で連絡取ったりとかしなかったの?と地味に気になる。

1話目での香衣のセリカに対する理想化がすごいのが、4話目で実態が描かれることによってゆがみが明らかになるんだけれども、女子の友情ってこういうところあるよねって感じでとても良かった。
4話目を経てのエピローグでは互いに等身大そのままを見ていて、それはそれで関係性として安定してよかったねと思うのですが。

龍輝くんのお父さんが地味にいいキャラで、ちょっと気になりました。

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『犬は勘定に入れません』

新年最初の読書は、干支に合わせて(笑)ずっと気になっていたこの作品を。
昔ときどき見ていた同人サイトの方がこの作品を好きらしく、ブログ等で言及されることが多くて、いつか読んでみたいと思ったのが初めて知ったときでした。それから10年以上が経ってそのサイトもほぼなくなっていたわけなのですが。
それはともかく、すごく楽しい小説でした!

作品の舞台は2057年。タイムトラベルが可能になり、過去に遡って歴史を学ぶ航時史学が学ばれている。
主人公もそんな史学生の一人で、コヴェントリー大聖堂再建のため「主教の鳥株」を探す任務を受けて1940年で大聖堂の焼跡を掘り返したり、1888年でわがままなお嬢様の結婚するべき相手を探したりする。

ざっくりと設定を説明するとこんな感じ。
SFでミステリでボーイミーツガールでコメディで時代小説でもあり、と盛りだくさん。
そして語り口がものすごく軽快でユーモアがあって、読んでいてとにかく楽しかったです。

「舞台は2057年」とさっき書いたんだけどそれは作中の「現代」で、物語の大半はタイムトラベル先の1888年で進行していきます。
そんなわけで、ヴィクトリア朝の文化や食事やひらひらの衣装とかの描写が多くて、それも楽しい。
シェイクスピア、テニスンほか古典からの引用も多いし、ミステリへの言及もある。ジーヴズの名前も出てくる。
ヒロインのヴェリティがもともと1930年代が担当でセイヤーズやクリスティーを読んでいたっていう設定!彼女がいたのがイギリスで良かったなって思いました。アメリカに派遣されていたらクイーンだっただろうし、そうだとしたらこんなほのぼのとした話にはならなかっただろうから。
セイヤーズ、1冊くらいしか読んでない気がするのでもうちょっと読んでみようかと思いました。
ところで『月長石』のネタバレをされたような気がするんですが……。あとがきで大丈夫って書いてあったから信じるけど大丈夫なんですか?

キャラクターもとても良かったです。全体的にキャラが立っていて。
ヴェリティがまずかわいいし、テレンスもぽやぽやしてるけど好青年だし、執事は普通にかっこいい。ので、わりと、フラグは立ってたなと思ったけど、まさかそこでその話がつながるとは、というのは驚きだった。
ブルドーザーみたいに計画を推し進めていくレイディ・シュラプネルや、スピリチュアル好きの婦人や金魚オタクの大佐や甘やかされたわがままお嬢様も、鼻持ちならないとは感じるけれどもそういうキャラとして作られているんだろうなと思うし、だとしたら大成功なんじゃない?
犬と猫も超かわいい。仔猫の群れにもだえた。

恋愛ものとしても、きゅんきゅんしました。ピーター卿とハリエットになぞらえているところが、それまでの話があってのそれだったのでとても良い。

ミステリというかSFというか、主教の鳥株の行方を説明するところや、齟齬の謎を解くところは筋が通った論理で面白かったです。
しっかりした論理化とか、伏線がとかは長編なのと謎解き以外の要素が多すぎてあんまり覚えてなかったのでなんとも言えないですが。
どこまでが歴史というカオス系連続体の意図なのか、どこまで計算されていることなのかについて考えだすと途方もなく広がっていくような気がする。

ひとつだけ難点があるとすれば、冒頭で状況が全然分からないところかな。
主人公がタイムトラベルのしすぎでタイムラグを患い、音声の識別困難や過度の感傷癖に悩まされているせいで、状況が全く見えない。
主人公にも分かっていないんだから、読者であるこちらにも分からないのは当然といえば当然なのだけれども、そこが少しとっつきにくかった。あと、ネッドがぼんやりしすぎていて軽くイラっとした。
作中の世界(2057年現在)の設定とかも、初めに説明されるということがなくって。というか、積極的に説明されてはいなくって、ふとした拍子に猫が絶滅しているとか、パンデミックがあったとかが分かるだけだった。
あと、「主教の鳥株」というのがサブタイトルにある「ヴィクトリア朝花瓶」だっていうのも最初は全然わからなくて、Googleさんに聞いたらそういう旨の知恵袋とかが出てきて、みんな分からないんだなって思いました。

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『長いお別れ』

ハードボイルドを読んでみようというのが今年の裏テーマだったわけなんですけど、最後に超有名作を。

とにかく文章がおしゃれだった。
なんだろう、冬の星空とか夜明けの街みたいな、ざわめきを背後に隠している静謐さ、硬質な感じの印象でした。
一行目からおしゃれさがばーんと迫ってきて、その文章を味わっているだけでも楽しかった。
あの有名な言葉はここに出てくるのか〜。
タフ云々の台詞はこれじゃないんですね、どの作品なんだろう?

ただ、文章はすごくおしゃれなんだけど、咀嚼するのがどうにも難しかったです。
特に会話が、何を意図している言葉なのかが全然分からなくて。おしゃれな禅問答を読んでいるような気分になってつらかった。

っていう感じのことを『初秋』読んだときにも思ったので、アメリカのハードボイルドは合わないんじゃないかなと思ってしまう。
アメリカの司法警察制度や、当時の価値観やなんかを知らないので、慣れの問題なのかもしれないと思うんですけど。
価値観は本当に意味わからなくて、酒場で会って何度か一緒に飲んだだけで友達としてそこまでするの?っていうのに引っかかってしまってですね……。
友情と言われましても、みたいな気分になり。前提からついていけないとちょっとあれじゃないですか。
そしてマーロウ含む登場人物の性規範!
アメリカでは不倫は罪じゃないんですか?


刷り込みみたいなものだと思うんだけど、私の中でどうしても「ハードボイルド」のイメージは原寮なんですよね。影響関係が逆なのは理解してるんですけど、そのジャンルで初めて読んでとても好きな作品なので。
それで、探偵を比べたときに沢崎の方がかっこいいなと思ってしまう。
マーロウが女好きなところが、"タフ"ではない感じがしたんです。
事件解決能力も想像してたより高くないなって思ってしまって。

台詞の意図が分からないために、マーロウがどういう方針で動きたいのかも分からなかったのが、事件解決能力が高くないように思えた要因かもしれない。
レノックスが犯人じゃないと信じているし、各方面からの圧力には抵抗しようとしているわりに、実際真相を捜査する気配もなく。ウェイドの方も似たような感じで。
すべてを知った上で隠しているという雰囲気でもなかったですし。
捜査するのか事件解決するのか、信用しきれなかったんですよね、最後まで。

事件も、容疑者になりうる人がどうしても少ないから証拠はないけどどう考えてもこの人怪しいでしょうってのが犯人だったので、なんとなく微妙さが残る。

とはいえ、最後にメキシコ人と会うシーンは感無量でした。
物語としてとても熱かった。

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『わたしの山の精霊ものがたり』

オトフリート・プロイスラーが故郷の山の神様に関する物語をまとめた本。24話の昔話の枠物語として、作者であるプロイスラ―自身が人生のうちのいくつかのタイミングでその山の神様に遭遇した話が書かれている。

という作品集なのですが、タイトルの「山の精霊」には「リューベツァール」というルビがふってあります。原題から察するに、綴りはRÜBEZAHL。そして、この物語集の舞台になっている山岳地帯は、シレジアとボヘミアの間にまたがっています。
――それって、この「山の精霊」ってリベザルのことでは?
っていうのがこの本を読んだ動機でした。
この本の中で語られるリューベツァールは、あのリベザルとは別個体で、天気を操ったりできるすごい山の神様なんだけれども、やっぱり髪や髭は赤いんだなぁとか共通点を見つけてにやにやする。
リベザルが地元ではどういう説話の中に出てくるかを知るには、手軽で良い本でした。
あの子も大きくなったらこんな立派な精霊になるのかしら、と想いを馳せてみたり。
ドイツにリューベツァール博物館やリューベツァール通りが本当にあるのなら、ちょっと行ってみたい。

で、リューベツァールが出てくるのがどういう物語かというと、ざっくりまとめると基本的には昔話によくあるやつで、住んでいる山やふもとの村で人間に悪戯をしたり、悪いことをする人や自分を馬鹿にする人には報いを与える一方で、貧乏な働き者なんかには助けを与えてくれる。
悪戯や悪い人を懲らしめる方法が、嵐や霧を起こすのが多いので、これは山の天気の変わりやすさとかを神格化してるのかなと思った。
出てくるときにはその物語のシチュエーションに合わせたいろいろな姿をしていて、山の宿屋の主人だったり、修行僧だったり、貴人だったりと千変万化。
もじゃもじゃの赤っぽい髭がトレードマークっぽい。

プロイスラ―はボヘミア側の人なので、シレジア側はまたちょっと違う話が伝わっているかもしれないと思うんだけれども、どうなんでしょう。
あの薬屋に出てくるリベザルはポーランドの精霊なので、シレジア側の話も知れたらもっとあの子に近づけるかもしれない。

「リューベツァール」という名前の由来が一番最初に説かれているんですが、その名前が不名誉なもので、その名で呼ばれると怒りを買うっていうのがちょっとおもしろかった。
簡単に説明すると、山の神様は人間のお姫様を妻にしようとしてさらってきたんだけど、お姫様に頼まれてカブを数えている間に逃げられちゃった、っていうお話。リューベツァールというのはカブを数えるという意味らしい。
ところでカブを叩いて人間の姿にする魔法ってなんかで読んだ覚えがあるんだけどなんだったっけ。ハウル?クラバート?
2話目ではちょっと違う名前の由来が語られていて、そっちではリューベツァールは「しっぽのある怪物」という意味らしく、その方がリベザルのイメージに近いかなと思いました。とはいえ、この話以外では尻尾のある姿は描かれていないので、地域や時期によって語られるイメージが違うのだろうと思う。

リベザルとは切り離したときに、一番興味深いと思ったのは、キリスト教との距離の取り方でした。
山の神リューベツァールは、キリスト教以前のいわば「異教の神」なので、悪魔として祓われそうになったり、あるいは迷信として軽くあしらわれたりする。でもそういう人に対してはリューベツァールの報いがあるというのがひとつのパターンだったのだけれども、それ以外のパターンもあり、むしろそっちの方が興味深かった。
おもしろかったのは、後半の第4話「かまどの村から来た王さまたち」。この話では、仕事にあぶれてしまったガラス職人3人が苦しい暮らしをどうにかするために、クリスマスの時期に東方から来た三人の王の仮想をして家々を回り、施しを受けようとするときにリューベツァールのバウデ(山荘)に迷い込んでしまうのですが。
リューベツァールに「どうしてそんな恰好をしているんだ」と聞かれて3人の職人はイエスのもとを訪れた東方三博士の物語を語って聞かせる。そうするとリューベツァールはその物語に感動して、3人のガラス職人が苦境を脱せられるようなお礼をしてくれるんですね。
この、キリスト教の物語に感動する異教の神様っていう構図がめちゃくちゃおもしろくないですか?ある意味ゆがめられたというか、でもそういうかたちで共存できている。
この話を読んで、日本の古代の説話でときどきある、神様が仏教に帰依したがる話を思い出しました。神身離脱ってやつ。
後半11話目の「今も、臨終の時も」もおもしろい。今にも死にそうなおばあさんが、最期のときには神父様に看取ってほしいと願っているけど、雪嵐の吹く山の上にはとても来れない。そんなときに、リューベツァールが麓の村から神父を連れてきてくれる。異教の神であっても、自分の土地に住む人の願いに応えてキリスト教の神父を連れてくるところがおもしろいし、さらにそのときに神父に祈りの文句(今も、臨終の時も)を言うんだけど、異教の神なので言葉に詰まるというのがおもしろかった。

リーゼンゲビルゲの山の付近で語られている話たちなので、自然とその地域の産業が大きく関わってくる話が多いのもおもしろかったです。
鉱山やガラス工芸、亜麻布の織物、薬草取り、密輸など。
本当にその地域に根を張っている物語なんだろうと感じた。

あと好きな話は前半5話目、「ヨハネス・プレトーリウス修士」です。リューベツァールの物語をまとめた本を書いたプレトーリウスのもとにリューベツァール本人がやってきて、お墨付きを与えるお話。訳者あとがきでプロイスラー自身の姿が反映されていると書いてあって、そうだろうなと思った。


ただ、この本に不満がひとつだけありました。
訳文の文体がどうしても好きじゃない。
同じくドイツの民話をもとにした『クラバート』は数年前に読んだのだけれども、大人でも十分読書に耐える文体だったんですね。
一方でこの『わたしの山の精霊ものがたり』はどうにも文体が子供向けっぽすぎる。
いや、児童書に「文体が子供向けっぽすぎる」って文句言うのはどう考えてもお門違いなんですけど(笑)
体言止めが多いのがあんまり好きじゃないんですよね。名詞で終わるのはまだいいとして、助詞で終わるやつ。「~だけ」とか「~から」とか。
文体が子供向けっぽすぎるわりには使っている用語が文体から想定される読者の年齢層には難しいのでは?と思う感じで。子供でもわりと難しい単語あっても、なんとなく雰囲気で理解して読むものですけど、だったら文体ももうちょっと大人っぽくてもいいのになと思った。
なんだろう、「男爵」に注釈入れるなら「ザクセン選帝侯」にも入れようよ、みたいな感覚。
子供っぽいというより、ちょっと古い感じなのかもしれない。昔話であるような文体。そう考えると、原文がそういう文体であえて書かれている可能性もあるけど。
何にせよ、ちょっともったいぶった感じで好きじゃなかったです。

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