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- 2017/07/28 『パーフェクトフレンド』
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- 2017/07/22 『盤上の夜』
- 2017/07/08 『know』(と、「正解するカド」)
- 2017/07/05 『Y駅発深夜バス』
『パーフェクトフレンド』
野崎まどチャレンジ。この間読んだ『know』もあまり好きではなかったから、かなり懐疑的だったんですけど。
素直におもしろかったです。
あらすじ。
小学4年生の理桜は、4年連続クラス委員を努める頭のいい少女。彼女は担任の依頼で、同じクラスになった不登校の少女さなかを訪ねる。さなかは大学までのカリキュラムを終え、博士号を取得している天才少女だった。小学校に行く必要を感じないさなかに、理桜は"友達の素晴らしさ"を説く。さなかは、「友達とは何か」「なぜ友達が必要か」「友達は作れるか」を知るために、学校に行くことを決意する。
うん。野崎まどは天才少女が好きなのかなと思うんだけど、私は別に好きじゃないんですよね。
私が好きじゃないのが、「野崎まどの書く天才少女」なのか「天才少女一般」に拡大できるのかあるいは「天才」なのか「少女」なのかは判然としないですが。
ともかく、そこに温度差は生まれていた。
でも一方で、少し頭がいいぐらいの人が本物の天才と出逢って足掻く物語は好きなのです。
だから理桜が好き。
葛藤しつつ苛立ちつつ、それでもいつの間にか友達と思ってしまっていたところとか、彼我の差を悟れる程度には頭がいいところとか。
Ⅴ章の理桜がすごく良くて、だから直後の展開が突然で。え?なんで?何が起こったの?って混乱した。きっとそうしてショックを与えるために、Ⅴ章の理桜がとても良かったんだと思うと、作者に対して理不尽な怒りを覚える。
小学生女子の日常の雰囲気も良かったです。ほのぼのと楽しい。
不思議スポットを巡ったり、お泊り会をしたり。
ボケとツッコミというか、地の文も含めてちょっとスベってる感もあったけど、小学生だしで納得してしまう(本当に?)
ところでどうでもいいのだけれど、名前とキャラクター的に、やややが出てくるたびにしゅごキャラが頭に浮かぶ。
で、そんな小学生らしい日常を送っている間にもさなかは友達とは何かについて考えていたわけですが。
「友達とは何か」を方程式で表そうとする発想はおもしろいのかもしれない。かもしれないというのは、私自身が数学苦手なので方程式と言われてもみたいな気分になっちゃうのと、方程式自体は出てこないからなんか肩透かし感がある。
中盤でさなかが語っていた「友達とは何か」、人類の効率を向上させるシステムというのは一面ではあると思うんです。でも、それは「友達」でなくても構わないというか。グループ化することで効率化するなら、そのグループを向上する社会集団の種類は問われないじゃないですか。「友達」でも「恋人」でも「家族」でも、単に学校でよくあったような「近くの人とグループを作る」でも社会生活の効率化は図れるのではないか。
と思ってしまった。
感情とか、個人の問題とか以前に。
後の方に出てくるもう一つの答えでも、帰納的な考え方をしているからかもしれないけど、ほかの社会集団ではなく友達でなくてはならない理由は分からないままだった気がする。
友達を観察して「友達とは何か」を考察する以上、ほかの社会集団ではない「友達」を定義することは難しいのかもしれないけど。対照実験も必要だよねぇ。
結果的にさなかは友達を作れて、豊かな人生を送ることになったから有耶無耶になったけど、そういう意味での「友達(ほかの社会集団からは差別化されたもの)」についての議論もほしかったです。
興味深かったのは、はじめに理桜が友達の素晴らしさを説いたときに、「理由は分からないけど、みんな友達がいるから友達は必要だ」というようなことを言ってたこと。私はここの理桜とさなかのやりとりに感動した。
具体的にはさなかの言った「科学的」という言葉。
つい勘違いしてしまうけれども、世界がまずあって、その構造を解き明かすのが科学なんですよね。
水がちょうど100℃で沸騰するのではなく、水が沸騰する温度を摂氏100℃と定義してる、みたいな。
なんか蒙が啓けたというか、そうだったと思い出したというか。
それを指摘してくれたのが良かったです。
Ⅵ章で語られる魔法のあり方や、魔法的な考え方による「友達とは何か」も面白かった。
納得できるかというと、こちらの答えにも納得できないんだけど。そういう考え方もあるのか、という新鮮さがおもしろい。
"無限"ってなんだろう。
この作品の、この「魔法」については魔法のままの方が好みだなって思いました。
魔法であるともないとも確定しない限り、無限の可能性を想像できる。なら私は(私も)魔法と想像していたい。
あ、分かった。
この小説は「友達とは何か」が主題ではないんだ。そこも大事なポイントだけど。
少女が、世界の見方を知る話なんだ。
たぶん本質はそっちだ。と思う。違うかも。
シンプルなテーマだけど、だからこそ普遍的だしおもしろい。
先程書いた、「方程式自体は出てこないからなんか肩透かし感がある」ということなんだけど、今まで読んだ野崎まど作品に感じていた不満のひとつはたぶんこれなのだと思います。
天才少女が何かすごいことをして、でもその「すごいこと」の肝心のところが書かれていないように感じる。
作中世界にはまってしまっているからこそ、どんなすごいことをするかを知りたいのに、その期待はずらされて、だからフラストレーションが溜まるのかもしれない。
アムリタを読んだときから、ぼんやりと思ってはいたんです。この本を評価するためにはメタレベルが違うのかもしれないって。うまく言語化できないんだけど。
もっとも、サンプル数3で何をいうかって感じがします。
ほかの作品も読むかなぁ。どうだろう。
野崎まどの良さは相変わらずよく分からないんだけど、『パーフェクトフレンド』はおもしろい小説でした。
素直におもしろかったです。
あらすじ。
小学4年生の理桜は、4年連続クラス委員を努める頭のいい少女。彼女は担任の依頼で、同じクラスになった不登校の少女さなかを訪ねる。さなかは大学までのカリキュラムを終え、博士号を取得している天才少女だった。小学校に行く必要を感じないさなかに、理桜は"友達の素晴らしさ"を説く。さなかは、「友達とは何か」「なぜ友達が必要か」「友達は作れるか」を知るために、学校に行くことを決意する。
うん。野崎まどは天才少女が好きなのかなと思うんだけど、私は別に好きじゃないんですよね。
私が好きじゃないのが、「野崎まどの書く天才少女」なのか「天才少女一般」に拡大できるのかあるいは「天才」なのか「少女」なのかは判然としないですが。
ともかく、そこに温度差は生まれていた。
でも一方で、少し頭がいいぐらいの人が本物の天才と出逢って足掻く物語は好きなのです。
だから理桜が好き。
葛藤しつつ苛立ちつつ、それでもいつの間にか友達と思ってしまっていたところとか、彼我の差を悟れる程度には頭がいいところとか。
Ⅴ章の理桜がすごく良くて、だから直後の展開が突然で。え?なんで?何が起こったの?って混乱した。きっとそうしてショックを与えるために、Ⅴ章の理桜がとても良かったんだと思うと、作者に対して理不尽な怒りを覚える。
小学生女子の日常の雰囲気も良かったです。ほのぼのと楽しい。
不思議スポットを巡ったり、お泊り会をしたり。
ボケとツッコミというか、地の文も含めてちょっとスベってる感もあったけど、小学生だしで納得してしまう(本当に?)
ところでどうでもいいのだけれど、名前とキャラクター的に、やややが出てくるたびにしゅごキャラが頭に浮かぶ。
で、そんな小学生らしい日常を送っている間にもさなかは友達とは何かについて考えていたわけですが。
「友達とは何か」を方程式で表そうとする発想はおもしろいのかもしれない。かもしれないというのは、私自身が数学苦手なので方程式と言われてもみたいな気分になっちゃうのと、方程式自体は出てこないからなんか肩透かし感がある。
中盤でさなかが語っていた「友達とは何か」、人類の効率を向上させるシステムというのは一面ではあると思うんです。でも、それは「友達」でなくても構わないというか。グループ化することで効率化するなら、そのグループを向上する社会集団の種類は問われないじゃないですか。「友達」でも「恋人」でも「家族」でも、単に学校でよくあったような「近くの人とグループを作る」でも社会生活の効率化は図れるのではないか。
と思ってしまった。
感情とか、個人の問題とか以前に。
後の方に出てくるもう一つの答えでも、帰納的な考え方をしているからかもしれないけど、ほかの社会集団ではなく友達でなくてはならない理由は分からないままだった気がする。
友達を観察して「友達とは何か」を考察する以上、ほかの社会集団ではない「友達」を定義することは難しいのかもしれないけど。対照実験も必要だよねぇ。
結果的にさなかは友達を作れて、豊かな人生を送ることになったから有耶無耶になったけど、そういう意味での「友達(ほかの社会集団からは差別化されたもの)」についての議論もほしかったです。
興味深かったのは、はじめに理桜が友達の素晴らしさを説いたときに、「理由は分からないけど、みんな友達がいるから友達は必要だ」というようなことを言ってたこと。私はここの理桜とさなかのやりとりに感動した。
具体的にはさなかの言った「科学的」という言葉。
つい勘違いしてしまうけれども、世界がまずあって、その構造を解き明かすのが科学なんですよね。
水がちょうど100℃で沸騰するのではなく、水が沸騰する温度を摂氏100℃と定義してる、みたいな。
なんか蒙が啓けたというか、そうだったと思い出したというか。
それを指摘してくれたのが良かったです。
Ⅵ章で語られる魔法のあり方や、魔法的な考え方による「友達とは何か」も面白かった。
納得できるかというと、こちらの答えにも納得できないんだけど。そういう考え方もあるのか、という新鮮さがおもしろい。
"無限"ってなんだろう。
この作品の、この「魔法」については魔法のままの方が好みだなって思いました。
魔法であるともないとも確定しない限り、無限の可能性を想像できる。なら私は(私も)魔法と想像していたい。
あ、分かった。
この小説は「友達とは何か」が主題ではないんだ。そこも大事なポイントだけど。
少女が、世界の見方を知る話なんだ。
たぶん本質はそっちだ。と思う。違うかも。
シンプルなテーマだけど、だからこそ普遍的だしおもしろい。
先程書いた、「方程式自体は出てこないからなんか肩透かし感がある」ということなんだけど、今まで読んだ野崎まど作品に感じていた不満のひとつはたぶんこれなのだと思います。
天才少女が何かすごいことをして、でもその「すごいこと」の肝心のところが書かれていないように感じる。
作中世界にはまってしまっているからこそ、どんなすごいことをするかを知りたいのに、その期待はずらされて、だからフラストレーションが溜まるのかもしれない。
アムリタを読んだときから、ぼんやりと思ってはいたんです。この本を評価するためにはメタレベルが違うのかもしれないって。うまく言語化できないんだけど。
もっとも、サンプル数3で何をいうかって感じがします。
ほかの作品も読むかなぁ。どうだろう。
野崎まどの良さは相変わらずよく分からないんだけど、『パーフェクトフレンド』はおもしろい小説でした。
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『バチカン奇跡調査官 闇の黄金』
なんだかんだ言いながらも3巻まで読んでるので、それなりには好きなのだろうと思う。
むしろ、おもしろいところがあるからこそ、苦手な部分がもう少しどうにかなれば……と思うのかもしれません。
そういえばアニメも始まりましたね。展開めちゃくちゃ早くて、初見の人はついてこれるのかしらと老婆心を発動してます。
ところで1話冒頭のナレーションで、一緒に見ていた人(未読)が「設定が『その可能性はすでに考えた』みたい」と言ってたのでそのかのが気になってます。
ともかく、3巻。
あらすじはこんな感じです。
「首切り道化師」の伝説が残るイタリアの小村で、教会に角笛が鳴り響き虹色の光が現れる「奇跡」が起こり、平賀とロベルトは調査に訪れる。
すると、教会でアルビノの少年がまだらの道化師に首を切られ殺される事件が起こる。
不満がありつつも毎回読んでしまうのは、謎と解決が好きだからだと思うんです。一見すると、奇跡にしか思えない謎が合理的に説明されるおもしろさ。
一歩先の展開や謎の答えは読めても、違う事件が起こったり冒険したりするのでその先は純粋に楽しい。
今回も、民話や童謡に隠された謎を解き明かすのは個人的に好きな展開だし、おもしろかったです。
それらを作った人はどういう人物で、何のためにという謎は残りますが。
秘密として伏せながらも書き記すのは、単に「王様の耳はロバの耳」だけではなくて、Aさんには隠したいけどBさんには伝えたいみたいな事情もあると私は思うんだけど(だからそこが「人は秘密を閉じ込めてはおけないのさ」で終わってしまったのは物足りなさがあった)、これらの民話童謡に隠した暗号は、一体誰が誰に伝えようとしたものなんだろうというのが不思議でした。
というかそこをはっきりさせないと、物語の展開に都合の良いことが都合良く伝わっていただけになってしまう気がする。そうなると、自作自演に思えてしまって、途端に全て色褪せてしまう。
柘榴の暗示と、ソロモンの忠告の二つ目までは、教会の次の世代にも秘密の通路を教えるために有用だと思う。そしてまだらの道化師モチーフも、もともとあったイメージに重ねて村人たちが森に入らないようにする意図があったことが分かる。
三つ目の忠告だけが、平仄が合わない気がするんです。「死の間」から抜け出す方法だなんて、囚人たちを監督する立場の人にとっては必要ないのでは?
……。
と思ってたのですが、書きながら読み返してて気づいた。その鍵が「死の間」にあるだけで、帰り道の扉の開け方を示してるだけなんですね。
だったらやっぱり、後にこの教会に着任して囚人たちをも監督する司祭に託したメッセージとして理解できます。むしろそう作中で言ってほしかった。
2冊あったのは少し謎なんだけど、違ってる部分が重要だと気づかせるためなのかな。
目次に「アゾート」ってあったので、てっきりバラバラ死体が出てくるものだと期待していたら出てこなくて残念。普通に、元ネタの方でしたね。
バラバラ死体は与太話にせよ、森の中に辰砂があったこともあり、水銀という方の意味で重要なのかしら、たたらの鬼なのかしらとかも考えてたんだけど。
水銀鉱脈はあるというし、水銀は金の精製に使うから繋がるとは思うんだけど、そこのところもうちょっと説明あってもよかったかなと思いました。
そういう風にもっとモチーフを重ねてイメージをふくらませたらいいのにと思うことは他にもあった。イメージの伏線というか。たとえば地下世界の目印が柘榴だと、私なら軽率にペルセポネと重ね合わせたくなるんだけど。一応カソリックの神父だからギリシャ神話は使えないのかしら。
今作で良かったのは、平賀とロベルト両方がちゃんとそれぞれの専門知識を活かして活躍してたことです。ポンコツ感が少なかった。
前2作で、それぞれの専門分野を紹介してからの3作目だからなのかもしれませんが。
ところで最初1巻を読んだとき勘違いしてたけど、紹介文によれば「天才」なのは平賀だけで、ロベルトはただの「エキスパート」なんですね。
キャラクターの書き方については、もう慣れるしかないんだろうなぁ。
3巻まで読んだら情報量が増えて愛着持てるかなとちょっと思ってたんだけど、特に増えなかったですね。
相変わらずキャラが情報・設定でしかないように思えてしまう。物語を動かすためのコマでしかない感じがする。
ロベルトの方はまだ人間臭さがあるし2巻で過去分かったしで、人に見えるんだけど。
これまででもう一つ苦手だったポイントの、薀蓄の出し方は今回はかなり改善されていたと思います。
台詞で長々と喋ることはなくなって、地の文で説明するようになっていたので。
あと今回は特に、このために作られた民話(とはいえ既存の類話はありますが、フォークロアはそういうものですし。でも3つのオレンジと笛吹男はヨーロッパの物語だけど、最初のは落語の死神だよね?イタリアにもあるの?)に込められた謎を解いていたので、わざわざひけらかすまでもない薀蓄自体が少なかったような気がします。出し方以前に。
平賀担当部分も、もともと私は理系知識少ないからかもしれないけど、必要十分な説明でしたし。
「ソロモンの忠告」を平賀に暗誦させるのは必要なかったと思うけど。口頭での物語の語りなら暗誦ではなく話者らしさがほしかった。というのは求めすぎでしょうか。
ところで固有振動数というか、その周波数だったのは単なる偶然だったの?その解決で本当にいいの?えー。
キリスト像も、温度変化は単なる偶然に頼ってるのかというのに引っかかる。
空気中に粉が舞っていたなら、蝋燭の火でドカーンとかならないんでしょうか。そこまでの量ではないのかな。というかこれはさすがに思考が「アゾート」に引きずられてる気がします。
これから、ガルドウネとの対決がメインになっていくのでしょうか。
陰謀論はフィクションと弁えた上で楽しむのは好きなんですけど、ミステリめいたものとして読んでるので、以降はずっとガルドウネが黒幕みたいな展開はさすがに嫌なんですけど。まさかそんなことはないよね。
ビル捜査官が都合良くギリシャ語を知っていたのがちょっと怪しいんですけど、警察に属して油断させてるガルドウネ(あるいはほかの秘密組織)メンバーなのでは?
むしろ、おもしろいところがあるからこそ、苦手な部分がもう少しどうにかなれば……と思うのかもしれません。
そういえばアニメも始まりましたね。展開めちゃくちゃ早くて、初見の人はついてこれるのかしらと老婆心を発動してます。
ところで1話冒頭のナレーションで、一緒に見ていた人(未読)が「設定が『その可能性はすでに考えた』みたい」と言ってたのでそのかのが気になってます。
ともかく、3巻。
あらすじはこんな感じです。
「首切り道化師」の伝説が残るイタリアの小村で、教会に角笛が鳴り響き虹色の光が現れる「奇跡」が起こり、平賀とロベルトは調査に訪れる。
すると、教会でアルビノの少年がまだらの道化師に首を切られ殺される事件が起こる。
不満がありつつも毎回読んでしまうのは、謎と解決が好きだからだと思うんです。一見すると、奇跡にしか思えない謎が合理的に説明されるおもしろさ。
一歩先の展開や謎の答えは読めても、違う事件が起こったり冒険したりするのでその先は純粋に楽しい。
今回も、民話や童謡に隠された謎を解き明かすのは個人的に好きな展開だし、おもしろかったです。
それらを作った人はどういう人物で、何のためにという謎は残りますが。
秘密として伏せながらも書き記すのは、単に「王様の耳はロバの耳」だけではなくて、Aさんには隠したいけどBさんには伝えたいみたいな事情もあると私は思うんだけど(だからそこが「人は秘密を閉じ込めてはおけないのさ」で終わってしまったのは物足りなさがあった)、これらの民話童謡に隠した暗号は、一体誰が誰に伝えようとしたものなんだろうというのが不思議でした。
というかそこをはっきりさせないと、物語の展開に都合の良いことが都合良く伝わっていただけになってしまう気がする。そうなると、自作自演に思えてしまって、途端に全て色褪せてしまう。
柘榴の暗示と、ソロモンの忠告の二つ目までは、教会の次の世代にも秘密の通路を教えるために有用だと思う。そしてまだらの道化師モチーフも、もともとあったイメージに重ねて村人たちが森に入らないようにする意図があったことが分かる。
三つ目の忠告だけが、平仄が合わない気がするんです。「死の間」から抜け出す方法だなんて、囚人たちを監督する立場の人にとっては必要ないのでは?
……。
と思ってたのですが、書きながら読み返してて気づいた。その鍵が「死の間」にあるだけで、帰り道の扉の開け方を示してるだけなんですね。
だったらやっぱり、後にこの教会に着任して囚人たちをも監督する司祭に託したメッセージとして理解できます。むしろそう作中で言ってほしかった。
2冊あったのは少し謎なんだけど、違ってる部分が重要だと気づかせるためなのかな。
目次に「アゾート」ってあったので、てっきりバラバラ死体が出てくるものだと期待していたら出てこなくて残念。普通に、元ネタの方でしたね。
バラバラ死体は与太話にせよ、森の中に辰砂があったこともあり、水銀という方の意味で重要なのかしら、たたらの鬼なのかしらとかも考えてたんだけど。
水銀鉱脈はあるというし、水銀は金の精製に使うから繋がるとは思うんだけど、そこのところもうちょっと説明あってもよかったかなと思いました。
そういう風にもっとモチーフを重ねてイメージをふくらませたらいいのにと思うことは他にもあった。イメージの伏線というか。たとえば地下世界の目印が柘榴だと、私なら軽率にペルセポネと重ね合わせたくなるんだけど。一応カソリックの神父だからギリシャ神話は使えないのかしら。
今作で良かったのは、平賀とロベルト両方がちゃんとそれぞれの専門知識を活かして活躍してたことです。ポンコツ感が少なかった。
前2作で、それぞれの専門分野を紹介してからの3作目だからなのかもしれませんが。
ところで最初1巻を読んだとき勘違いしてたけど、紹介文によれば「天才」なのは平賀だけで、ロベルトはただの「エキスパート」なんですね。
キャラクターの書き方については、もう慣れるしかないんだろうなぁ。
3巻まで読んだら情報量が増えて愛着持てるかなとちょっと思ってたんだけど、特に増えなかったですね。
相変わらずキャラが情報・設定でしかないように思えてしまう。物語を動かすためのコマでしかない感じがする。
ロベルトの方はまだ人間臭さがあるし2巻で過去分かったしで、人に見えるんだけど。
これまででもう一つ苦手だったポイントの、薀蓄の出し方は今回はかなり改善されていたと思います。
台詞で長々と喋ることはなくなって、地の文で説明するようになっていたので。
あと今回は特に、このために作られた民話(とはいえ既存の類話はありますが、フォークロアはそういうものですし。でも3つのオレンジと笛吹男はヨーロッパの物語だけど、最初のは落語の死神だよね?イタリアにもあるの?)に込められた謎を解いていたので、わざわざひけらかすまでもない薀蓄自体が少なかったような気がします。出し方以前に。
平賀担当部分も、もともと私は理系知識少ないからかもしれないけど、必要十分な説明でしたし。
「ソロモンの忠告」を平賀に暗誦させるのは必要なかったと思うけど。口頭での物語の語りなら暗誦ではなく話者らしさがほしかった。というのは求めすぎでしょうか。
ところで固有振動数というか、その周波数だったのは単なる偶然だったの?その解決で本当にいいの?えー。
キリスト像も、温度変化は単なる偶然に頼ってるのかというのに引っかかる。
空気中に粉が舞っていたなら、蝋燭の火でドカーンとかならないんでしょうか。そこまでの量ではないのかな。というかこれはさすがに思考が「アゾート」に引きずられてる気がします。
これから、ガルドウネとの対決がメインになっていくのでしょうか。
陰謀論はフィクションと弁えた上で楽しむのは好きなんですけど、ミステリめいたものとして読んでるので、以降はずっとガルドウネが黒幕みたいな展開はさすがに嫌なんですけど。まさかそんなことはないよね。
ビル捜査官が都合良くギリシャ語を知っていたのがちょっと怪しいんですけど、警察に属して油断させてるガルドウネ(あるいはほかの秘密組織)メンバーなのでは?
『盤上の夜』
……すごい小説でした。
理解したというよりは表層をなぞっただけのような読み方で、書かれていることもその先にあるものもよく分かってはいないけど、よく分からないからこそ、これは何かすごいものなのではないかと思う、そんな小説でした。
囲碁、チェッカー、麻雀、将棋といった盤上ゲームをめぐる6つの短編。
ゲームの対戦やそれに関わる人間模様はもちろん描かれるのだけれど、この本の主題はそこにはなく、もっと根源的な問いであると感じました。すなわち、ゲームとは何か。
だからか、私は全然ゲームに疎い人間なのにそこまで苦戦せずに読めました。
この短編集に出てくるゲームでいえば、せいぜい将棋のコマの動かし方を知っているぐらいで、囲碁も麻雀もルールを知りません。チャトランガは言うに及ばず。
そんなわけで、対戦・対局中の展開はあまり分からなくて半分読み飛ばしていたぐらい。でも何が起きてるか分からなくても、たぶんここでゲーム的に盛り上がってるんだろうなというのは想像できるので、なんとなく。
もちろん、分かった方がよりおもしろいんだろうなとは思いましたが。
なんていうか、たぶんそこはこの短編集の主題ではないんですよね。
だからゲームのルールを知らなくても楽しめる。
これもSFなのかという驚きもありました。
通常SFといって想像するような宇宙や機械や科学技術はほとんど出てこない。
作中の世界はたぶん現在よりは未来で、脳波で動く義肢や故人の意識を再現するプログラムや量子コンピュータが実用化されている。そういうものはSFっぽいけど、でもそれも背景でしかなくて。
定義論ができるほどSFに詳しいわけでもないので、「だからこれはSFじゃない」と言うつもりは全くありません。むしろ逆で、SF的なガジェットがなくてもSFでありうるなら、SFの地平はどこまでのびているんだろうという感動。
神についての問いに行き着くのも私はSFっぽいと思うのです。
というより、今まで読んできたものから分析すると、おもしろいSFって神や哲学をテーマにしているものが多い印象で。……たぶん、読んできたものが偏っているというのもあるのでしょうが。
科学を突き詰めると、信仰に行き着くのでしょうか。そもそも科学も神が造った世界の在り方を知るために始まったものですし。
この『盤上の夜』という短編集は一応同じ人物を語り手とした連作短編で、テーマ的にも緩やかにつながっているのだけれども、それぞれの物語は完全に独立していて、『ヨハネスブルグの天使たち』もこんな感じの連作の並べ方だったなぁと思い出しました。
「千年の虚空」で「我は死なり」というオッペンハイマーの言葉を引いた次の短編が「原爆の局」だったり。一方で元ネタのバガヴァット・ギーター的には5世紀インドの「象を飛ばした王子」と関連があるような。
同じ人物が語り手と言っても、彼は無色透明な存在でパーソナリティは特に明かされない。最終話では彼の気持ちも描かれるし、読んできているとそれに感情移入できるけれども、彼がどういう人物かも名前も分からない。ただ、ジャーナリストとしてだけ。
その役割については冲方丁が解説で書いているのであえて繰り返しませんが。
私が思ったのは、この短編集のそれぞれの作品はそのジャーナリストの取材メモ的なものなのだろうかということです。完成稿ではなく、取材中のジャーナリストをただ視点人物とした三人称の物語でもなく。「象を飛ばした王子」は完成稿かもしれないし、「原爆の局」はジャーナリストを視点人物とした三人称小説かもしれませんが。
取材メモ的なものというのはつまり、このジャーナリスト自身が書いたもので、ただし読み手は想定されていない。判明した事実とそれを追った経緯とインタビュー内容ともともとある情報との並べ方が混然としているのがそんな気がしました。
あと、一編一編についている英題がかっこよくて深い。
どういう意味かなと考えてみるけど、なかなかこれだという解にはたどり着けないのですが。
雰囲気で、かっこいい。
さて、個々の短編の感想。
「盤上の夜」
四肢を失い、碁盤を感覚器とするようになった女流棋士と、彼女をサポートする男性棋士の話。
この本がどういう本かということも分からないまま読み始め、囲碁のルールも知らないので、おもしろいよりも先に分からないが来た。
時系列がかなり飛ぶので、由宇がいなくなったのがいつで、書かれている現在はそこから何年後で、ということも分かりにくかった。
過去の話、由宇に関する相田の話は興味深かった。強くなるために、感覚を精密にするために、外国語を学ぶという飛躍がおもしろい。
ラストは爽やかな雰囲気で好きです。
「人間の王」
かつてチェッカーで無敗を誇ったチャンピオンが、機械に負け、そのプログラムは後に完全解を発見してしまう。
語り手は誰か、ということが謎めいてて興味をひかれる。
人間の王ティンズリーが「自分という存在のプログラマは神だ」というのはすごくかっこいい。
「彼」ではないこのインタビュイーのプログラマはそうではないから、その言葉を言えないのだろうか。
これも最後の台詞がとても良かったです。
完全解が発見され、機械に敗れ、それでも「わたし」が勝つと言うことにやはり業のようなものを見ると同時に、過去の言葉を引用していることで人格の一貫性が感じられるのが良い。
彼と戦って、このインタビュイーが勝つとしたら、それは、「誰」が勝ったことになるのだろうか。
「清められた卓」
歴史から抹消された麻雀タイトル戦についての物語。
これは最後の伏線回収というか謎解きというか、彼女の目的というかがすごくて鳥肌が立った。
その事実自体もすごいのだけれども、見せ方がミステリっぽくて好き。
どういうシステムでそれが為せるのだろう……。
ただこの作品が一番、対局の展開を追う話だったので、用語も分からず何が起こっているのやら……という感じが強かった。
「象を飛ばした王子」
将棋やチェスの起源と考えられる古代インドの盤上遊戯、チャトランガの誕生の物語。
この話が一番好きです。
いや、うん。私の好みとして宗教のものが好きなのと、実は歴史上のこのエピソードだったんですみたいな話がとても好きなのが大きいとは思いますが。
仏伝はあまり詳しくないので、この話がどこまでが史料を踏まえたもので、どこからが宮内さんオリジナルなのかの峻別はできないのですが、こういうことが本当にあったかもしれないと夢想できるリアリティがありました。
あとラーフラ・エクリプス・天然痘のイメージの連鎖が美しい。そのイメージが増殖していくゲームにも展開していくのも、その名が悪魔にすり替わっていくのも。すごく好き。
そして218ページ後ろから2行目の台詞!めちゃくちゃ本質を表していて、これを書ける才能にただ感嘆する。
「千年の虚空」
政治家と将棋棋士の兄弟と、二人と共にいた一人の女性の話。解説の言葉を借りれば「『人生の再生と、ゲームの終焉』を願う物語」
逆にこの話は苦手です。
退廃的な関係性になんとなく嫌悪感があったのと、「ゲームを殺すゲーム」「暴力の終焉」という言葉の具体的な内容がよく分からなかったのと、誰も成し遂げていないから三人が何をやりたかったのかも分からなくて、ほかの短編にあった爽やかな雰囲気がなく苦みだけがあるので。
なにより、歴史が好きな私は「量子歴史学」というものに反発してしまう気持ちがある。
その結果はおもしろいと思うんだけれども、現実や自分に引き写して考えると拒否したくなる。結局機械がなくとも、現実として個々人が好きな歴史を選んでいるようなところは実際にあるわけで。
一つ前の短編で「戦争をやめさせるために」チャトランガを献上したのに対して、この短編では暴力の終焉をめざして将棋を突き詰めているのがおもしろいとは思いますが。
「原爆の局」
一話目で登場した相田と由宇の行方を追って、ジャーナリストはアメリカへ向かう。相田と由宇は1945年8月6日の広島で打たれていた〈原爆の局〉の棋譜を、ホワイトサンズ砂漠で再現していた。
由宇と井上の対局を見ていたジャーナリストの「現実の底が抜けた」後の散文的な箇条書き的な描写、これまでの4つの短編の断片や人類の営為を幻視する文章がとても良かったです。
それぞれの文章に元ネタはあるのだろうか。あるならば、それを知りたい。
原爆をテーマにしていることもあり、このテキストを追いながら私は柳広司『新世界』の第16章を想起していました。……『新世界』は私にとって強烈な印象を植え付けた本なので、原爆や戦争関係の物事について読むとすぐに思い出してしまう。
ともかく、ここの316~319ページの文章はこれ自体に意味がある文章というだけではなく、関連する何かを思い出させて意味を広げるような効果を意図している文章なのでは、とまで思ってしまった。
潜水というイメージは一方で、3月のライオンにそんなシーンがあったことを思い出す。囲碁も将棋も深く潜っていくところは同じなのかもしれないと納得したのですが、詳しい人からすると全然違うと言われてしまうのかも。
これもどこまでが実際にあったことでどこからが創作なのか、その継ぎ目が分からない作品でした。
だから、きっとこれは実際にあっただろうことで変えられない過去なのだと思っていても、広島に留まった関係者のことを考えると切なくなる。
理解したというよりは表層をなぞっただけのような読み方で、書かれていることもその先にあるものもよく分かってはいないけど、よく分からないからこそ、これは何かすごいものなのではないかと思う、そんな小説でした。
囲碁、チェッカー、麻雀、将棋といった盤上ゲームをめぐる6つの短編。
ゲームの対戦やそれに関わる人間模様はもちろん描かれるのだけれど、この本の主題はそこにはなく、もっと根源的な問いであると感じました。すなわち、ゲームとは何か。
だからか、私は全然ゲームに疎い人間なのにそこまで苦戦せずに読めました。
この短編集に出てくるゲームでいえば、せいぜい将棋のコマの動かし方を知っているぐらいで、囲碁も麻雀もルールを知りません。チャトランガは言うに及ばず。
そんなわけで、対戦・対局中の展開はあまり分からなくて半分読み飛ばしていたぐらい。でも何が起きてるか分からなくても、たぶんここでゲーム的に盛り上がってるんだろうなというのは想像できるので、なんとなく。
もちろん、分かった方がよりおもしろいんだろうなとは思いましたが。
なんていうか、たぶんそこはこの短編集の主題ではないんですよね。
だからゲームのルールを知らなくても楽しめる。
これもSFなのかという驚きもありました。
通常SFといって想像するような宇宙や機械や科学技術はほとんど出てこない。
作中の世界はたぶん現在よりは未来で、脳波で動く義肢や故人の意識を再現するプログラムや量子コンピュータが実用化されている。そういうものはSFっぽいけど、でもそれも背景でしかなくて。
定義論ができるほどSFに詳しいわけでもないので、「だからこれはSFじゃない」と言うつもりは全くありません。むしろ逆で、SF的なガジェットがなくてもSFでありうるなら、SFの地平はどこまでのびているんだろうという感動。
神についての問いに行き着くのも私はSFっぽいと思うのです。
というより、今まで読んできたものから分析すると、おもしろいSFって神や哲学をテーマにしているものが多い印象で。……たぶん、読んできたものが偏っているというのもあるのでしょうが。
科学を突き詰めると、信仰に行き着くのでしょうか。そもそも科学も神が造った世界の在り方を知るために始まったものですし。
この『盤上の夜』という短編集は一応同じ人物を語り手とした連作短編で、テーマ的にも緩やかにつながっているのだけれども、それぞれの物語は完全に独立していて、『ヨハネスブルグの天使たち』もこんな感じの連作の並べ方だったなぁと思い出しました。
「千年の虚空」で「我は死なり」というオッペンハイマーの言葉を引いた次の短編が「原爆の局」だったり。一方で元ネタのバガヴァット・ギーター的には5世紀インドの「象を飛ばした王子」と関連があるような。
同じ人物が語り手と言っても、彼は無色透明な存在でパーソナリティは特に明かされない。最終話では彼の気持ちも描かれるし、読んできているとそれに感情移入できるけれども、彼がどういう人物かも名前も分からない。ただ、ジャーナリストとしてだけ。
その役割については冲方丁が解説で書いているのであえて繰り返しませんが。
私が思ったのは、この短編集のそれぞれの作品はそのジャーナリストの取材メモ的なものなのだろうかということです。完成稿ではなく、取材中のジャーナリストをただ視点人物とした三人称の物語でもなく。「象を飛ばした王子」は完成稿かもしれないし、「原爆の局」はジャーナリストを視点人物とした三人称小説かもしれませんが。
取材メモ的なものというのはつまり、このジャーナリスト自身が書いたもので、ただし読み手は想定されていない。判明した事実とそれを追った経緯とインタビュー内容ともともとある情報との並べ方が混然としているのがそんな気がしました。
あと、一編一編についている英題がかっこよくて深い。
どういう意味かなと考えてみるけど、なかなかこれだという解にはたどり着けないのですが。
雰囲気で、かっこいい。
さて、個々の短編の感想。
「盤上の夜」
四肢を失い、碁盤を感覚器とするようになった女流棋士と、彼女をサポートする男性棋士の話。
この本がどういう本かということも分からないまま読み始め、囲碁のルールも知らないので、おもしろいよりも先に分からないが来た。
時系列がかなり飛ぶので、由宇がいなくなったのがいつで、書かれている現在はそこから何年後で、ということも分かりにくかった。
過去の話、由宇に関する相田の話は興味深かった。強くなるために、感覚を精密にするために、外国語を学ぶという飛躍がおもしろい。
ラストは爽やかな雰囲気で好きです。
「人間の王」
かつてチェッカーで無敗を誇ったチャンピオンが、機械に負け、そのプログラムは後に完全解を発見してしまう。
語り手は誰か、ということが謎めいてて興味をひかれる。
人間の王ティンズリーが「自分という存在のプログラマは神だ」というのはすごくかっこいい。
「彼」ではないこのインタビュイーのプログラマはそうではないから、その言葉を言えないのだろうか。
これも最後の台詞がとても良かったです。
完全解が発見され、機械に敗れ、それでも「わたし」が勝つと言うことにやはり業のようなものを見ると同時に、過去の言葉を引用していることで人格の一貫性が感じられるのが良い。
彼と戦って、このインタビュイーが勝つとしたら、それは、「誰」が勝ったことになるのだろうか。
「清められた卓」
歴史から抹消された麻雀タイトル戦についての物語。
これは最後の伏線回収というか謎解きというか、彼女の目的というかがすごくて鳥肌が立った。
その事実自体もすごいのだけれども、見せ方がミステリっぽくて好き。
どういうシステムでそれが為せるのだろう……。
ただこの作品が一番、対局の展開を追う話だったので、用語も分からず何が起こっているのやら……という感じが強かった。
「象を飛ばした王子」
将棋やチェスの起源と考えられる古代インドの盤上遊戯、チャトランガの誕生の物語。
この話が一番好きです。
いや、うん。私の好みとして宗教のものが好きなのと、実は歴史上のこのエピソードだったんですみたいな話がとても好きなのが大きいとは思いますが。
仏伝はあまり詳しくないので、この話がどこまでが史料を踏まえたもので、どこからが宮内さんオリジナルなのかの峻別はできないのですが、こういうことが本当にあったかもしれないと夢想できるリアリティがありました。
あとラーフラ・エクリプス・天然痘のイメージの連鎖が美しい。そのイメージが増殖していくゲームにも展開していくのも、その名が悪魔にすり替わっていくのも。すごく好き。
そして218ページ後ろから2行目の台詞!めちゃくちゃ本質を表していて、これを書ける才能にただ感嘆する。
「千年の虚空」
政治家と将棋棋士の兄弟と、二人と共にいた一人の女性の話。解説の言葉を借りれば「『人生の再生と、ゲームの終焉』を願う物語」
逆にこの話は苦手です。
退廃的な関係性になんとなく嫌悪感があったのと、「ゲームを殺すゲーム」「暴力の終焉」という言葉の具体的な内容がよく分からなかったのと、誰も成し遂げていないから三人が何をやりたかったのかも分からなくて、ほかの短編にあった爽やかな雰囲気がなく苦みだけがあるので。
なにより、歴史が好きな私は「量子歴史学」というものに反発してしまう気持ちがある。
その結果はおもしろいと思うんだけれども、現実や自分に引き写して考えると拒否したくなる。結局機械がなくとも、現実として個々人が好きな歴史を選んでいるようなところは実際にあるわけで。
一つ前の短編で「戦争をやめさせるために」チャトランガを献上したのに対して、この短編では暴力の終焉をめざして将棋を突き詰めているのがおもしろいとは思いますが。
「原爆の局」
一話目で登場した相田と由宇の行方を追って、ジャーナリストはアメリカへ向かう。相田と由宇は1945年8月6日の広島で打たれていた〈原爆の局〉の棋譜を、ホワイトサンズ砂漠で再現していた。
由宇と井上の対局を見ていたジャーナリストの「現実の底が抜けた」後の散文的な箇条書き的な描写、これまでの4つの短編の断片や人類の営為を幻視する文章がとても良かったです。
それぞれの文章に元ネタはあるのだろうか。あるならば、それを知りたい。
原爆をテーマにしていることもあり、このテキストを追いながら私は柳広司『新世界』の第16章を想起していました。……『新世界』は私にとって強烈な印象を植え付けた本なので、原爆や戦争関係の物事について読むとすぐに思い出してしまう。
ともかく、ここの316~319ページの文章はこれ自体に意味がある文章というだけではなく、関連する何かを思い出させて意味を広げるような効果を意図している文章なのでは、とまで思ってしまった。
潜水というイメージは一方で、3月のライオンにそんなシーンがあったことを思い出す。囲碁も将棋も深く潜っていくところは同じなのかもしれないと納得したのですが、詳しい人からすると全然違うと言われてしまうのかも。
これもどこまでが実際にあったことでどこからが創作なのか、その継ぎ目が分からない作品でした。
だから、きっとこれは実際にあっただろうことで変えられない過去なのだと思っていても、広島に留まった関係者のことを考えると切なくなる。
『know』(と、「正解するカド」)
アニメ「正解するカド」を見ていました。
最初の数話は未知の存在との遭遇で、技術とか文化との違いにわくわくして、それらがもたらされることによって人間の世界がどう変わってしまうのか考えたりして、とても面白かった。
徐々に雲行きが怪しくなっていくのも、ファーストコンタクトものにありがちな展開だから、どう解決していくのかと楽しみですらあった。
でも最終回がとてもひどかった。釈然としない。それまでは影も形もなかった、そういう存在がどういう意味をもちうるのかすら何も伏線がなかった人が出てきて一気に解決するのは違うだろうと思ったし、だからキャラクターたちの感情が全く分からなくって、心情がわかるザシュニナと花森さんはただかわいそうで、ザシュニナが死んだのか異方に戻ったのかもよく分からないし、なんていうか完全に「人」が置き去りな感じがした。
だから、野崎まどを読んでみようと思いました。理解するために。
以前にアムリタを読んだけどおもしろさが分からなくて、でも絶賛されている作家だし、なんとなくの苦手意識が合って読んでいなかったんですけど。
kindleでセールしてたときに買っていたものがたまたま手元にあったので、まずはこれから。
ざっくりと結論から言います。
好きじゃない部分は山ほどあるけど、引き込まれてしまう小説だった。
読んでいる間は続きが気になってどんどんページが進んだし、読了後もこの話についていろいろ考えてしまう。
そういう意味ではすごい作品なのだと思います。
でも好きじゃない部分が山ほどあるから、好きとは言いたくない。手放しには褒めたくない。
一番合わなかったのは、地の文です。
体言止めの多用。文章から霧のように立ち上がってくる、肥大した自意識と根拠のない全能感。
一言でいってしまえば青臭い。
主人公が中学生や高校生という設定ならまだしも、28歳でこれっていつまで思春期引きずってんだって思った。
私もまだ若かった頃なら読めたかもしれないけど、今の私にはつらかった。
14歳の頃を回想するシーンはこの若さが良い雰囲気づくりになっていたんですけど。連レルの精神は先生と出会ったそのときで止まってしまったってことなんだろうか。
世界設定は面白かったです。
情報材で建物や道路が覆われ、超情報化した社会。人々は脳に人造の脳葉”電子葉”を移植することが義務付けられ、”鍵刺激”に関連する情報が自動的に調べられる。電子葉は脳の電位変化を操作することで実際にないものを聞き、見ることができる。
舞台が見知った京都なのも、懐かしかった。(京都の中でも特に知っている場所が出てきていたので、なおさら)
一方で、そういう超情報化した世界で調べた「情報の確実性」はどうやって担保されるのだろうということや、メディアはどうなっているかということに私は関心があったのだけれども、特に書かれることがなくてフラストレーションが溜まってる。
私の中では、私の知っている現代のインターネットが基準になっているから、ネット検索ではごみのような情報ばかりが出てきてしまうとか、探そうとしたことがどこにも載っていないとか、そもそも書いてあることが本当なのかが分からないものだという認識が前提としてあるので。
この小説の中の情報材の設定では、現在と少なくとも情報材が塗布されてからの情報は蓄えられている(メモリ容量も気になるが)にしても、それ以前の過去についての情報はそこまで莫大に増えてはいないと思うんです。
でもたとえば二十八部衆について知ることができるのなら、それらについての情報はどこかにあるわけで。漠然と百科事典のようなものを想像しているのだけれども。その情報は誰が作っているのか。
あるいは答えがないこと、研究・議論されている問題、人によって何が正しいかが変わりうることについては、どういう扱いなのか。
今みたいに個人や企業が運営しているサイトみたいなものは完全になくなっているのだろうか。出版された本もすべて電子化されて公開されているのだろうか。でもそれにしたって確実性のない本なんて山ほどあるし。
そう考えていくと今度はメディアがどうなっているのかが気になる。「大衆の知らないことを報せる」のがメディアだと思うんです。でも、超情報化によって「知らないこと」がほとんどなくなってしまう。だとするとメディアは何を「報せる」ことができるのか。
知ルですらその場に行かないと知れないことがあるのなら、一般人に知れないことはもっとあるのでしょうけど。
ただまあ、そういう世界で「『最初から知っている』と『調べて知る』ことの差異はどんどん縮まっている」というのはおもしろいなって思いました。
これもだけれど、印象に残った表現はいくつかあった。
「”情報が取得できない”というのも立派な情報の一つ」というのも何となく印象に残っている言葉です、シチュエーション含めて。
知るということと、情報がテーマになっている話で、そうしたテーマの部分は読んでいて楽しかったです。
だからこそ私はさっき長々と書いたように情報の正しさの方が気になってしまったけれども。
そして、全知を求める人がどうしても知りたかったことがあれだったというのも興味深い。
ただ、私はあのモチーフが大好きで、だから(主に地の文で好きじゃないと感じる小説が)それを使っていること自体が嫌悪感を抱いてしまった。……いや、これは完全なわがままですね。私の専売ってわけじゃないんだから。でも使うならもっとうまく使ってほしかったです。
イザナギ・イザナミにせよ、オルフェウスにせよ、「女を連れ戻すために男が行って戻ってくる」話なので、連レルが迎えに行くわけじゃないのかってのが意外でした。え、書かれていないところで迎えに行ったの?
それとも立場が逆で、知ルがイザナギなのかしら。性別が入れ替わっていて、先に逝った先生がイザナミで、だから知識の神とつながるかしら。
一人で行って帰ってくるならイナンナだよね。まぁ、知ルがイナンナなら待っていなかった連レルが冥界に堕ちることになるけど。
京都御所の地下に、ってやつもこういう話でそういうのが出てくるのが嫌だった。これも似たようなわがままです。
というか、京都御所があそこになる前に内裏は何度も焼けているわけですし、あそこにあるものたちの来し方がだいぶふわっとしすぎていて歴史好きとしては気になってしまう。
使われないまま保存され続ける情報に意味はあるのだろうか。
というのがこの物語においてあの場所が出てくる意味なのかなと思うけれども。
でも、そこで得た情報は特に示されないしなーというのが不満です。いや、存在しないものの内容を具体的に示せないのはそういうものかもしれないが。
エピローグが直接的なものではないけれども、5章の後を想像しうるもので、これぐらいの距離感は好きだなって思いました。
情報処理能力が高すぎるから「本気の会話」をしたいというのは、ちょっと異方存在を思い出しました。というかそもそも、知ルのイメージがカドの最終回で出てきた彼女とだぶるところがありますね。
強大な能力をもった女の子が好きなのだろうか。
私はあまり萌えないけど。
この小説も、SF的なネタと小説(物語と文章)とがどうも噛み合っていないような気がして、そしてアムリタもカドもそういう印象を受けたような気がする。
物語である以上、一点だけ突出しているからすごいものだとは私は思えない。
もう何作か読んでみようと思うけれども。その印象を塗り替えてくれるものがあることを願って。
最初の数話は未知の存在との遭遇で、技術とか文化との違いにわくわくして、それらがもたらされることによって人間の世界がどう変わってしまうのか考えたりして、とても面白かった。
徐々に雲行きが怪しくなっていくのも、ファーストコンタクトものにありがちな展開だから、どう解決していくのかと楽しみですらあった。
でも最終回がとてもひどかった。釈然としない。それまでは影も形もなかった、そういう存在がどういう意味をもちうるのかすら何も伏線がなかった人が出てきて一気に解決するのは違うだろうと思ったし、だからキャラクターたちの感情が全く分からなくって、心情がわかるザシュニナと花森さんはただかわいそうで、ザシュニナが死んだのか異方に戻ったのかもよく分からないし、なんていうか完全に「人」が置き去りな感じがした。
だから、野崎まどを読んでみようと思いました。理解するために。
以前にアムリタを読んだけどおもしろさが分からなくて、でも絶賛されている作家だし、なんとなくの苦手意識が合って読んでいなかったんですけど。
kindleでセールしてたときに買っていたものがたまたま手元にあったので、まずはこれから。
ざっくりと結論から言います。
好きじゃない部分は山ほどあるけど、引き込まれてしまう小説だった。
読んでいる間は続きが気になってどんどんページが進んだし、読了後もこの話についていろいろ考えてしまう。
そういう意味ではすごい作品なのだと思います。
でも好きじゃない部分が山ほどあるから、好きとは言いたくない。手放しには褒めたくない。
一番合わなかったのは、地の文です。
体言止めの多用。文章から霧のように立ち上がってくる、肥大した自意識と根拠のない全能感。
一言でいってしまえば青臭い。
主人公が中学生や高校生という設定ならまだしも、28歳でこれっていつまで思春期引きずってんだって思った。
私もまだ若かった頃なら読めたかもしれないけど、今の私にはつらかった。
14歳の頃を回想するシーンはこの若さが良い雰囲気づくりになっていたんですけど。連レルの精神は先生と出会ったそのときで止まってしまったってことなんだろうか。
世界設定は面白かったです。
情報材で建物や道路が覆われ、超情報化した社会。人々は脳に人造の脳葉”電子葉”を移植することが義務付けられ、”鍵刺激”に関連する情報が自動的に調べられる。電子葉は脳の電位変化を操作することで実際にないものを聞き、見ることができる。
舞台が見知った京都なのも、懐かしかった。(京都の中でも特に知っている場所が出てきていたので、なおさら)
一方で、そういう超情報化した世界で調べた「情報の確実性」はどうやって担保されるのだろうということや、メディアはどうなっているかということに私は関心があったのだけれども、特に書かれることがなくてフラストレーションが溜まってる。
私の中では、私の知っている現代のインターネットが基準になっているから、ネット検索ではごみのような情報ばかりが出てきてしまうとか、探そうとしたことがどこにも載っていないとか、そもそも書いてあることが本当なのかが分からないものだという認識が前提としてあるので。
この小説の中の情報材の設定では、現在と少なくとも情報材が塗布されてからの情報は蓄えられている(メモリ容量も気になるが)にしても、それ以前の過去についての情報はそこまで莫大に増えてはいないと思うんです。
でもたとえば二十八部衆について知ることができるのなら、それらについての情報はどこかにあるわけで。漠然と百科事典のようなものを想像しているのだけれども。その情報は誰が作っているのか。
あるいは答えがないこと、研究・議論されている問題、人によって何が正しいかが変わりうることについては、どういう扱いなのか。
今みたいに個人や企業が運営しているサイトみたいなものは完全になくなっているのだろうか。出版された本もすべて電子化されて公開されているのだろうか。でもそれにしたって確実性のない本なんて山ほどあるし。
そう考えていくと今度はメディアがどうなっているのかが気になる。「大衆の知らないことを報せる」のがメディアだと思うんです。でも、超情報化によって「知らないこと」がほとんどなくなってしまう。だとするとメディアは何を「報せる」ことができるのか。
知ルですらその場に行かないと知れないことがあるのなら、一般人に知れないことはもっとあるのでしょうけど。
ただまあ、そういう世界で「『最初から知っている』と『調べて知る』ことの差異はどんどん縮まっている」というのはおもしろいなって思いました。
これもだけれど、印象に残った表現はいくつかあった。
「”情報が取得できない”というのも立派な情報の一つ」というのも何となく印象に残っている言葉です、シチュエーション含めて。
知るということと、情報がテーマになっている話で、そうしたテーマの部分は読んでいて楽しかったです。
だからこそ私はさっき長々と書いたように情報の正しさの方が気になってしまったけれども。
そして、全知を求める人がどうしても知りたかったことがあれだったというのも興味深い。
ただ、私はあのモチーフが大好きで、だから(主に地の文で好きじゃないと感じる小説が)それを使っていること自体が嫌悪感を抱いてしまった。……いや、これは完全なわがままですね。私の専売ってわけじゃないんだから。でも使うならもっとうまく使ってほしかったです。
イザナギ・イザナミにせよ、オルフェウスにせよ、「女を連れ戻すために男が行って戻ってくる」話なので、連レルが迎えに行くわけじゃないのかってのが意外でした。え、書かれていないところで迎えに行ったの?
それとも立場が逆で、知ルがイザナギなのかしら。性別が入れ替わっていて、先に逝った先生がイザナミで、だから知識の神とつながるかしら。
一人で行って帰ってくるならイナンナだよね。まぁ、知ルがイナンナなら待っていなかった連レルが冥界に堕ちることになるけど。
京都御所の地下に、ってやつもこういう話でそういうのが出てくるのが嫌だった。これも似たようなわがままです。
というか、京都御所があそこになる前に内裏は何度も焼けているわけですし、あそこにあるものたちの来し方がだいぶふわっとしすぎていて歴史好きとしては気になってしまう。
使われないまま保存され続ける情報に意味はあるのだろうか。
というのがこの物語においてあの場所が出てくる意味なのかなと思うけれども。
でも、そこで得た情報は特に示されないしなーというのが不満です。いや、存在しないものの内容を具体的に示せないのはそういうものかもしれないが。
エピローグが直接的なものではないけれども、5章の後を想像しうるもので、これぐらいの距離感は好きだなって思いました。
情報処理能力が高すぎるから「本気の会話」をしたいというのは、ちょっと異方存在を思い出しました。というかそもそも、知ルのイメージがカドの最終回で出てきた彼女とだぶるところがありますね。
強大な能力をもった女の子が好きなのだろうか。
私はあまり萌えないけど。
この小説も、SF的なネタと小説(物語と文章)とがどうも噛み合っていないような気がして、そしてアムリタもカドもそういう印象を受けたような気がする。
物語である以上、一点だけ突出しているからすごいものだとは私は思えない。
もう何作か読んでみようと思うけれども。その印象を塗り替えてくれるものがあることを願って。
『Y駅発深夜バス』
青春もの、犯人当てあり、倒叙あり、……とバラエティに富んだ一冊でした。
連作ではない、完全に独立した短編の短編集って最近の作家でだとなんとなく珍しいような気がします。あんまり読んでないだけかもしれない。ぱっと思い出せるのでは『満願』くらいか。
読んでいて楽しかったです。
全体的に、展開が予測できない部分があって「そうくるのか」っていう小さな驚きが楽しい。
逆にテンプレート的なところはそのまま予定調和におさまるので、ストレスがなく楽でもあり。
そこのバランスがわりとちょうどよかったように思います。
奇妙な味っぽさがあったのも、好きなところです。なんとなく不安感のある物語が多かった。
キャラクターが駒のようで、でも駒として割り切れずに微妙に人であろうとしていて、そこの差が少し気になった。
駒として割り切ってしまった方がいっそいいんじゃないか、みたいな。
たとえば2話目に出てくる女子中学生。現実の女子中学生じゃなくて、あくまで「物語に出てくる女子中学生」にリアリティが立脚しているみたいに感じました。あるいは教科書に出てくるような、というのは作者の本業が頭にあるからそう思うだけかもしれません。
教訓的な内容の児童文学に出てくる子供って出来が良すぎてそんな人普通いねえよ、ってなるみたいな。そういう意味で、その属性の人物として書いているのだけれども作者の都合で動いているみたいな。
まぁそういうのは大学のとき犯人当てとかでも時折見たので、ミステリで短編ってなると人までは書ききれないし、でも感情の部分も書きたいし、ってなるとそうなるものなのかもしれません。謎と解決が中心にある小説なら、読者側も属性さえ与えられればそういうものとして認識するので。
でも、おじさんが書いているわりにはそんなに女性が気持ち悪くなかったです。出てくる女けっこう性格悪い人多いなとは思ったけど。ミステリだし。
ではそれぞれの短編の感想。
「Y駅発深夜バス」
これは講談社文庫のアンソロジーで読んだことがあったのですが、やっぱりおもしろい。
運行しているはずのない深夜バスに乗って、奇妙な人々を見て、という幻想的な謎が第二部で合理的に解決される。
私がそういう構造の話が好きというだけの話かもしれませんが。
幻想的な謎が、解き明かされてしまえばたわいもないことばかりなのに、謎が謎である間は幻想的に思えるのが好き。そして、全部がちゃんと解明されるのも安心感がありました。
台詞が情報提示っぽさが強いのは難ではあるけれども、短編だし。
ラスト一行も、これ自体が衝撃的というよりも主人公に与えた衝撃が想像できて良い。
「猫矢来」
女子中学生、里奈はあることからいじめられるようになってしまう。一方ある家では、塀の上に水入りペットボトルを隙間なく並べていた。
みたいな感じでしょうか。あらすじまとめるの難しい。
女子中学生が現実感ないって話は上に書いた通り。先日読んだ「時をかける少女」を思い出しました。
でも爽やかな雰囲気だった。
重めのテーマがあるのも良かったです。
碓井は一応探偵役ってことになるんだろうとは思うんだけど、なんていうかお前何者だよ感がすごかった。恋愛感情も唐突だし(それは主人公も感じていることだからいいけど)、見ただけでその理由を推理できるってすごすぎないかって思ってしまう。
「ミッシング・リング」
タイトル……ダジャレじゃんってくすりときた。
指輪を盗んだ犯人を探す「犯人当て」。
見取り図と〈読者への挑戦〉付きなので、これはぜひ紙とペンを持って取り組んでほしいです。
いや、私は紙とペンは使わなかったんですけど。その結果、ダミー解までしかたどり着けなかったので悔しい。
容疑者も三人だし、本気で解くつもりで読んだら気づけたかなと負け惜しみも込みで言ってみるけど、ぱっと見で解けたところで、ここまででいいやって思ってしまったのも自分だし。
以下ネタバレ
アリバイだけ考えていると罠に陥るのが巧くできてるなと思いました。
節ごとに示されている時刻が、その節のどのタイミングでなのか(一行目の時点なのか)みたいなことが微妙で、そこには少し引っかかった。でも明らかに嘘を吐いている人がいるから、っていうのでダミー犯人が消去できるのは鮮やか。オーソドックスなネタだけど、一読しただけだと読み飛ばしてしまうので有効なんだなと思いました。
登場人物もただでさえ少ないのに前もって半分になってしまうし、せっかくの見取り図も二階部分は謎解きに関係なかったのは残念だった。物語としての厚みと解きやすさとをバランスとった結果こうなったんだろうとは思いましたが。
「九人病」
ひなびた温泉旅館で相部屋になった男。彼は奇妙な話を語り始めた……。
これはとても好き。
ミステリというよりも、怪談とかホラーっぽい感じでした。
オチがすごく好きです。怪奇現象が解決されたあとで、実は……みたいな。
七人みさきみたいですよね、九人病。
祟りよりは幾分か科学的だけれども、だからこそ引っかかるところも多かった。
なぜ九人までしか発病しないのかは結局よく分からないままで、そこもミステリ的に解き明かされたらもっとおもしろかったかな。病状も手足が抜けるって医学的にありうるのか気になる。
あとはなんで毎年こんな辺鄙なところに来てるんだっていう地味な謎も残って、もやもやする。
「特急富士」
ミステリ作家は恋人を殺そうと、アリバイトリックを準備していた。一方、担当編集も、アリバイトリックを用いて殺人を計画していた。
殺人がバッティングするというシチュエーションがとにかくおもしろい。
完全にコメディでした。
偽装工作をなんとか成功させようという奮闘がただ笑える。策を弄したがゆえにより悪い事態に陥るし、どこかで諦めてた方がマシだったんじゃないの。
倒叙ものの犯人ってそれなりに頭がいいような気がしていたんですけど、この短編についてはそんなことはまるでなく。少し先は読めるけど考えが浅い。そして不注意。
そもそも殺人の動機になった件からして、馬鹿だったからじゃないとしか言いようがないですし。馬鹿しか出てこない推理小説はこうなるのかって思いました。
だからこそ刑事が普通に仕事してるだけでめちゃくちゃ有能に見える。
いやしかし、それは確認しておこうよ……って思いました。最後のシーン。
連作ではない、完全に独立した短編の短編集って最近の作家でだとなんとなく珍しいような気がします。あんまり読んでないだけかもしれない。ぱっと思い出せるのでは『満願』くらいか。
読んでいて楽しかったです。
全体的に、展開が予測できない部分があって「そうくるのか」っていう小さな驚きが楽しい。
逆にテンプレート的なところはそのまま予定調和におさまるので、ストレスがなく楽でもあり。
そこのバランスがわりとちょうどよかったように思います。
奇妙な味っぽさがあったのも、好きなところです。なんとなく不安感のある物語が多かった。
キャラクターが駒のようで、でも駒として割り切れずに微妙に人であろうとしていて、そこの差が少し気になった。
駒として割り切ってしまった方がいっそいいんじゃないか、みたいな。
たとえば2話目に出てくる女子中学生。現実の女子中学生じゃなくて、あくまで「物語に出てくる女子中学生」にリアリティが立脚しているみたいに感じました。あるいは教科書に出てくるような、というのは作者の本業が頭にあるからそう思うだけかもしれません。
教訓的な内容の児童文学に出てくる子供って出来が良すぎてそんな人普通いねえよ、ってなるみたいな。そういう意味で、その属性の人物として書いているのだけれども作者の都合で動いているみたいな。
まぁそういうのは大学のとき犯人当てとかでも時折見たので、ミステリで短編ってなると人までは書ききれないし、でも感情の部分も書きたいし、ってなるとそうなるものなのかもしれません。謎と解決が中心にある小説なら、読者側も属性さえ与えられればそういうものとして認識するので。
でも、おじさんが書いているわりにはそんなに女性が気持ち悪くなかったです。出てくる女けっこう性格悪い人多いなとは思ったけど。ミステリだし。
ではそれぞれの短編の感想。
「Y駅発深夜バス」
これは講談社文庫のアンソロジーで読んだことがあったのですが、やっぱりおもしろい。
運行しているはずのない深夜バスに乗って、奇妙な人々を見て、という幻想的な謎が第二部で合理的に解決される。
私がそういう構造の話が好きというだけの話かもしれませんが。
幻想的な謎が、解き明かされてしまえばたわいもないことばかりなのに、謎が謎である間は幻想的に思えるのが好き。そして、全部がちゃんと解明されるのも安心感がありました。
台詞が情報提示っぽさが強いのは難ではあるけれども、短編だし。
ラスト一行も、これ自体が衝撃的というよりも主人公に与えた衝撃が想像できて良い。
「猫矢来」
女子中学生、里奈はあることからいじめられるようになってしまう。一方ある家では、塀の上に水入りペットボトルを隙間なく並べていた。
みたいな感じでしょうか。あらすじまとめるの難しい。
女子中学生が現実感ないって話は上に書いた通り。先日読んだ「時をかける少女」を思い出しました。
でも爽やかな雰囲気だった。
重めのテーマがあるのも良かったです。
碓井は一応探偵役ってことになるんだろうとは思うんだけど、なんていうかお前何者だよ感がすごかった。恋愛感情も唐突だし(それは主人公も感じていることだからいいけど)、見ただけでその理由を推理できるってすごすぎないかって思ってしまう。
「ミッシング・リング」
タイトル……ダジャレじゃんってくすりときた。
指輪を盗んだ犯人を探す「犯人当て」。
見取り図と〈読者への挑戦〉付きなので、これはぜひ紙とペンを持って取り組んでほしいです。
いや、私は紙とペンは使わなかったんですけど。その結果、ダミー解までしかたどり着けなかったので悔しい。
容疑者も三人だし、本気で解くつもりで読んだら気づけたかなと負け惜しみも込みで言ってみるけど、ぱっと見で解けたところで、ここまででいいやって思ってしまったのも自分だし。
以下ネタバレ
アリバイだけ考えていると罠に陥るのが巧くできてるなと思いました。
節ごとに示されている時刻が、その節のどのタイミングでなのか(一行目の時点なのか)みたいなことが微妙で、そこには少し引っかかった。でも明らかに嘘を吐いている人がいるから、っていうのでダミー犯人が消去できるのは鮮やか。オーソドックスなネタだけど、一読しただけだと読み飛ばしてしまうので有効なんだなと思いました。
登場人物もただでさえ少ないのに前もって半分になってしまうし、せっかくの見取り図も二階部分は謎解きに関係なかったのは残念だった。物語としての厚みと解きやすさとをバランスとった結果こうなったんだろうとは思いましたが。
「九人病」
ひなびた温泉旅館で相部屋になった男。彼は奇妙な話を語り始めた……。
これはとても好き。
ミステリというよりも、怪談とかホラーっぽい感じでした。
オチがすごく好きです。怪奇現象が解決されたあとで、実は……みたいな。
七人みさきみたいですよね、九人病。
祟りよりは幾分か科学的だけれども、だからこそ引っかかるところも多かった。
なぜ九人までしか発病しないのかは結局よく分からないままで、そこもミステリ的に解き明かされたらもっとおもしろかったかな。病状も手足が抜けるって医学的にありうるのか気になる。
あとはなんで毎年こんな辺鄙なところに来てるんだっていう地味な謎も残って、もやもやする。
「特急富士」
ミステリ作家は恋人を殺そうと、アリバイトリックを準備していた。一方、担当編集も、アリバイトリックを用いて殺人を計画していた。
殺人がバッティングするというシチュエーションがとにかくおもしろい。
完全にコメディでした。
偽装工作をなんとか成功させようという奮闘がただ笑える。策を弄したがゆえにより悪い事態に陥るし、どこかで諦めてた方がマシだったんじゃないの。
倒叙ものの犯人ってそれなりに頭がいいような気がしていたんですけど、この短編についてはそんなことはまるでなく。少し先は読めるけど考えが浅い。そして不注意。
そもそも殺人の動機になった件からして、馬鹿だったからじゃないとしか言いようがないですし。馬鹿しか出てこない推理小説はこうなるのかって思いました。
だからこそ刑事が普通に仕事してるだけでめちゃくちゃ有能に見える。
いやしかし、それは確認しておこうよ……って思いました。最後のシーン。