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- 2016/10/11 『奇想天外だから史実――天神伝承を読み解く』
- 2016/10/02 BFG
- 2016/09/26 『一の悲劇』
- 2016/09/19 『江戸の妖怪革命』
- 2016/09/09 『ランボー怒りの改新』
『奇想天外だから史実――天神伝承を読み解く』
小説以外の本だと、どうしても読むのに時間がかかってしまいますね。
内容を咀嚼するのが、エンタメよりも難しいというのもあるんだけれども、ページをめくるモチベーションがなかなか続かないというのもあります。たとえどんなに興味あるテーマの本でも。
そんなわけで、タイトルに惹かれて買ったものの、読み終えるまでに2週間以上かかりました。
『奇想天外だから史実』という、これこそ奇想天外で逆説的なタイトルの意味は、本文中の言葉を引用するなら、
もちろんその結果、天神伝承の伝えるメッセージは何かとか、伝承/信仰成立の経緯も知れるけれども、そこの部分はちょっと飛躍が多かったり裏づけが微妙だったりするので。その点をメインで書いているもっと専門的な本を読んでみたい。
そんな感じで、文章の雰囲気的には、大学の教養科目の講義って感じです。専門的知識に基づいているのだろうけれども、平易な言葉で、知識のない人にもわかりやすく書かれている。史料も現代語訳されてるし。研究とは何かという方法論を教えるのが主で、脱線なんかもして……ってあたりがすごく授業っぽい気がします。
方法論以外の部分。
・第一章 大阪天満宮の「七本松伝承」
「七本松伝承」の主要部は「大将軍社の前に七本松が生えた」こと。大阪天満宮も北野天満宮も、道饗祭の故地に祀られた大将軍社に隣接して創祀された。大将軍の神は金星の神格化だが、疫病の神でもある。
巨大都市平安京では疫病が恐れられ、従来の神よりも強力な〈カミ〉を必要とした。そこで、すでに疫病退散の神格をもっていた大将軍社の星辰信仰をベースに、道真を新たな〈カミ〉として祀った。「天満大自在天神」の神号も、天に満ちる星を意味する。
新たな〈カミ〉は旧来の神祇信仰へのアンチテーゼとしてつくられたため、平安京の植生の変化に伴い照葉樹林でなく針葉樹林の松が象徴とされた。
・第二章 飛梅伝承と渡唐天神伝承
飛梅伝承は『拾遺和歌集』『後撰集』に載った「東風吹かば~」「桜花~」の歌を取り込み、12世紀末ごろまでに安楽寺で生まれた。飛ぶ梅と飛ばない桜の齟齬を解決するため、室町末期には「飛梅枯桜追松」伝承に発展する。その背景には松を象徴にもつ北野天満宮と太宰府安楽寺(太宰府は古来から梅で有名)の相剋がある。北野=天神御霊信仰・山門派・藤原氏/太宰府=菅原道真信仰・寺門派・菅原氏。
渡唐天神伝承は新宗派の禅宗(臨済宗)による正当性獲得のために作られた。伝承に「梅」の要素を取り入れることで、禅宗と天神信仰の繋がりを象徴させた。作者は道真の子孫でもある鉄牛円心。
飛梅の飛んだ方向と渡唐天神の飛んだ方向はどちらも同じ西方。天神が取り込んだ大将軍神も西方の神。伝承作者によるイメージの利用。
・第三章 天神信仰と鶏・牛・柘榴
・道明寺鶏鳴説話
「鶏飼わず伝承」は日本各地に伝えられるが、特に菅原道真と深く結びつく。境界性をもつ鶏は不吉な鳥だった。土師氏は鶏を鳴かせて葬地を選定する呪術を行い、その影響は浄瑠璃『菅原伝授手習鑑』にもみられる。また、平安時代には雷神は鶏身と考えられていた。
・神牛伝承
殺牛祭神信仰、雷神と牛の緊密な結合。雷神を通して天神は牛と結びついた。疫病を祓う「土牛童子」との関係。童子は小さ子神としての天神。
・柘榴天神伝承
延暦寺の北野天満宮に対する優位を示す説話。北野天満宮を崇敬していた足利将軍家の盛衰も能に表された伝承に影響。柘榴ではなく海石榴(油)の読み違えでは。
内容を咀嚼するのが、エンタメよりも難しいというのもあるんだけれども、ページをめくるモチベーションがなかなか続かないというのもあります。たとえどんなに興味あるテーマの本でも。
そんなわけで、タイトルに惹かれて買ったものの、読み終えるまでに2週間以上かかりました。
『奇想天外だから史実』という、これこそ奇想天外で逆説的なタイトルの意味は、本文中の言葉を引用するなら、
現代の私たちにとって理解しやすい伝承は、それだけ後世に改訂された可能性が高いのです。反対に、奇想天外で理解不能な伝承こそ古体を引きずっており、真実を宿している。この視点に立って、天神伝承をテキストに、伝承を読み解くための方法論をレクチャーしてくれるのがこの本の趣旨なのだと思います。
もちろんその結果、天神伝承の伝えるメッセージは何かとか、伝承/信仰成立の経緯も知れるけれども、そこの部分はちょっと飛躍が多かったり裏づけが微妙だったりするので。その点をメインで書いているもっと専門的な本を読んでみたい。
そんな感じで、文章の雰囲気的には、大学の教養科目の講義って感じです。専門的知識に基づいているのだろうけれども、平易な言葉で、知識のない人にもわかりやすく書かれている。史料も現代語訳されてるし。研究とは何かという方法論を教えるのが主で、脱線なんかもして……ってあたりがすごく授業っぽい気がします。
方法論以外の部分。
・第一章 大阪天満宮の「七本松伝承」
「七本松伝承」の主要部は「大将軍社の前に七本松が生えた」こと。大阪天満宮も北野天満宮も、道饗祭の故地に祀られた大将軍社に隣接して創祀された。大将軍の神は金星の神格化だが、疫病の神でもある。
巨大都市平安京では疫病が恐れられ、従来の神よりも強力な〈カミ〉を必要とした。そこで、すでに疫病退散の神格をもっていた大将軍社の星辰信仰をベースに、道真を新たな〈カミ〉として祀った。「天満大自在天神」の神号も、天に満ちる星を意味する。
新たな〈カミ〉は旧来の神祇信仰へのアンチテーゼとしてつくられたため、平安京の植生の変化に伴い照葉樹林でなく針葉樹林の松が象徴とされた。
・第二章 飛梅伝承と渡唐天神伝承
飛梅伝承は『拾遺和歌集』『後撰集』に載った「東風吹かば~」「桜花~」の歌を取り込み、12世紀末ごろまでに安楽寺で生まれた。飛ぶ梅と飛ばない桜の齟齬を解決するため、室町末期には「飛梅枯桜追松」伝承に発展する。その背景には松を象徴にもつ北野天満宮と太宰府安楽寺(太宰府は古来から梅で有名)の相剋がある。北野=天神御霊信仰・山門派・藤原氏/太宰府=菅原道真信仰・寺門派・菅原氏。
渡唐天神伝承は新宗派の禅宗(臨済宗)による正当性獲得のために作られた。伝承に「梅」の要素を取り入れることで、禅宗と天神信仰の繋がりを象徴させた。作者は道真の子孫でもある鉄牛円心。
飛梅の飛んだ方向と渡唐天神の飛んだ方向はどちらも同じ西方。天神が取り込んだ大将軍神も西方の神。伝承作者によるイメージの利用。
・第三章 天神信仰と鶏・牛・柘榴
・道明寺鶏鳴説話
「鶏飼わず伝承」は日本各地に伝えられるが、特に菅原道真と深く結びつく。境界性をもつ鶏は不吉な鳥だった。土師氏は鶏を鳴かせて葬地を選定する呪術を行い、その影響は浄瑠璃『菅原伝授手習鑑』にもみられる。また、平安時代には雷神は鶏身と考えられていた。
・神牛伝承
殺牛祭神信仰、雷神と牛の緊密な結合。雷神を通して天神は牛と結びついた。疫病を祓う「土牛童子」との関係。童子は小さ子神としての天神。
・柘榴天神伝承
延暦寺の北野天満宮に対する優位を示す説話。北野天満宮を崇敬していた足利将軍家の盛衰も能に表された伝承に影響。柘榴ではなく海石榴(油)の読み違えでは。
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長くなったので感想などは以下に。
・偶然とか加上についての説明が興味深かった。何がそうなのか見極めが難しそう。
・新たな疫神の需要がまずあって、そこに道真の怨霊信仰が習合した、という過程は納得できた。けど、じゃあなぜ道真?という疑問がある。ただ単にその時期に怨霊になったという偶然?
・北野と太宰府の性格の違いも、言われてみるとその通りなんだけれども、今までもやもやしていたものが言語化されてようやくわかった感じ。
・それぞれの伝承についての説明が羅列的なので、もっと丁寧に論理的繋がりを説明してほしい。イメージとしてはわかるけれども、うまく消化できない。
・なんとなく、星辰信仰との習合といわれると身構えてしまう。トンデモっぽいのも多いから。
確かに大将軍八神社は北野天満宮のすぐ傍にあるし、疫神として習合関係にあるのは理解できるけれども。
・「天満大自在天神」の神号について
天満=星はいいとして、「大自在」の解釈に疑問が残る。平安時代には星の運行の規則性はとっくに理解されていた気がするので、星の運行を「自在」というふうに言うかな?って。
・「桜は枯れた」というやつ、高田崇史的解釈(桜=藤原氏)するとこれもまた呪いかなとなんとなく楽しい気分になりますね。
・渡唐天神伝承の作者の辺りも、伝衣塔は確からしいけれども、「道真の子孫で円爾の弟子でもあるから」という理由は状況証拠でしかなさそうだなぁと思ってしまいます。
・鶏のイメージの転換はいつごろからなのだろうか。というか、いつから食べていたのかと、それ以前はどのくらいの密度で飼われていたのかが気になる。
あと、道真と鶏の関係が深いからといってそこでなぜ鶏を嫌う方向の話になるかがあまりよくわからなかった。雷神が鶏身ならむしろ祀るのではないか。だから、そもそも鶏は嫌われていて、そこに「偶然」土師氏の末裔で雷神である道真と伝承が結びついたのだろうけれども。なんとなくすっきりしない。
・鶏は鳴き声から雷神と結びついたらしいけれども、牛はどうして雷神と結びついたのだろう。なぜ供御に選ばれたのか。農耕に使うから?
古代信仰における動物の「意味」が気になる。
・さまざまなイメージや記憶がより合わさって信仰/伝承が形成されるというのは何というかそうなんだろうな。ひとつのわかりやすい答えばかり気になってしまうけれども、いろいろな方向から光を当てた傍証の積み重ねもこの分野では有効なのだろう。でも、論証がそれだけだとやっぱり消化不良なところもある。物語という意味ではそういうモチーフの作り方が使えそうだなと思います。
・柘榴でなく海石榴ってのは、まさかそんなと思いつつ、ありうるかもしれない誤読。発想がおもしろい。
個人的には柘榴といえば鬼子母神と関連付けたくなるのだけれども……。実際にはその説話もいつから受容されていたのか知れたものじゃないからあれだけれども。
・しだら神上洛事件や道賢上人冥土記をどのように読み解くのかにも興味があります。基本は校訂によってメインの要素を探っていくことからなのかしら。
・学部生の頃に読んでいたら、卒論に関して違うアプローチもできたかもなぁ。
・偶然とか加上についての説明が興味深かった。何がそうなのか見極めが難しそう。
・新たな疫神の需要がまずあって、そこに道真の怨霊信仰が習合した、という過程は納得できた。けど、じゃあなぜ道真?という疑問がある。ただ単にその時期に怨霊になったという偶然?
・北野と太宰府の性格の違いも、言われてみるとその通りなんだけれども、今までもやもやしていたものが言語化されてようやくわかった感じ。
・それぞれの伝承についての説明が羅列的なので、もっと丁寧に論理的繋がりを説明してほしい。イメージとしてはわかるけれども、うまく消化できない。
・なんとなく、星辰信仰との習合といわれると身構えてしまう。トンデモっぽいのも多いから。
確かに大将軍八神社は北野天満宮のすぐ傍にあるし、疫神として習合関係にあるのは理解できるけれども。
・「天満大自在天神」の神号について
天満=星はいいとして、「大自在」の解釈に疑問が残る。平安時代には星の運行の規則性はとっくに理解されていた気がするので、星の運行を「自在」というふうに言うかな?って。
・「桜は枯れた」というやつ、高田崇史的解釈(桜=藤原氏)するとこれもまた呪いかなとなんとなく楽しい気分になりますね。
・渡唐天神伝承の作者の辺りも、伝衣塔は確からしいけれども、「道真の子孫で円爾の弟子でもあるから」という理由は状況証拠でしかなさそうだなぁと思ってしまいます。
・鶏のイメージの転換はいつごろからなのだろうか。というか、いつから食べていたのかと、それ以前はどのくらいの密度で飼われていたのかが気になる。
あと、道真と鶏の関係が深いからといってそこでなぜ鶏を嫌う方向の話になるかがあまりよくわからなかった。雷神が鶏身ならむしろ祀るのではないか。だから、そもそも鶏は嫌われていて、そこに「偶然」土師氏の末裔で雷神である道真と伝承が結びついたのだろうけれども。なんとなくすっきりしない。
・鶏は鳴き声から雷神と結びついたらしいけれども、牛はどうして雷神と結びついたのだろう。なぜ供御に選ばれたのか。農耕に使うから?
古代信仰における動物の「意味」が気になる。
・さまざまなイメージや記憶がより合わさって信仰/伝承が形成されるというのは何というかそうなんだろうな。ひとつのわかりやすい答えばかり気になってしまうけれども、いろいろな方向から光を当てた傍証の積み重ねもこの分野では有効なのだろう。でも、論証がそれだけだとやっぱり消化不良なところもある。物語という意味ではそういうモチーフの作り方が使えそうだなと思います。
・柘榴でなく海石榴ってのは、まさかそんなと思いつつ、ありうるかもしれない誤読。発想がおもしろい。
個人的には柘榴といえば鬼子母神と関連付けたくなるのだけれども……。実際にはその説話もいつから受容されていたのか知れたものじゃないからあれだけれども。
・しだら神上洛事件や道賢上人冥土記をどのように読み解くのかにも興味があります。基本は校訂によってメインの要素を探っていくことからなのかしら。
・学部生の頃に読んでいたら、卒論に関して違うアプローチもできたかもなぁ。
2016/10/11 (Tue) 読書感想(小説以外)
CM(0)
BFG
自分で記事カテゴリーを感想小説と小説以外で分けておいてなんだけど、どうにもどちらとも決めがたい……。
BFGの映画を見てきました。
が、それに先立って原作を読みました。予習的な感じで。
両方の感想と比較してみてのあれこれと。
ネタバレそんなに気にするものではないけど、ネタバレもあるかもです。
まずは原作、『オ・ヤサシ巨人BFG』
1985年初版の中村妙子訳で読んだので、もしかすると新しい方とは若干訳とかが違うかもしれない。
良いファンタジーだった。
ストーリー的にはあまり起伏がないというかありがちな感じ。女の子が巨人(優しい)に攫われて、仲良くなって、悪い人食い巨人たちをやっつける、みたいな。なんとなく『魔女がいっぱい』を思い出しました。そして『魔女がいっぱい』の方が好きではある。
でも、巨人の暮らしの描写だったり、夢のコレクションの列挙だったり、そういう背景的な部分がすごくワクワクする感じで好きです。
特に、女王と一緒に食事するシーンがすごく好き。巨人用のテーブルをセットするところが、逆「床下の小人」っぽいというか。鋤と鍬をフォークとスプーンにしたり、柱時計と卓球台で高いテーブルを作ったり。そういう風に、その場にあるもので間に合わせる想像力みたいなのがすごく楽しいのです。あとなんとなくだけれど、そういう状況でも一応ちゃんとテーブルをセットするあたりがイギリス人っぽい(偏見) 脚立を使ってサーブする執事氏萌えでした。
あと、ダールの児童書では定番の、言葉遊びも楽しかったです。
BFGの言い間違いは言語ではどうなってたんだろうって興味ある。「ニンゲンマメ」はbeingとbeansをかけてるのかなってなんとなく思ったんですけど。
トルコ人は七面鳥の味がするとかのくだりも好き。
あと、巨人たちが唯一畏れているのが「ジャック」っていうのも好きです。……「マメノキ」という謎の武器を持っているらしいけど詳しいことは伝わってないという設定も含めて。
さて、映画の話。
だいたいの感想は同じ感じで、ストーリーは原作よりはダイナミズムがあるとはいえ、前半は特に話が薄かったかなーって。
でも、映像がすごく綺麗でよかった。特に、夢まわりのあれこれが!スッバラシイ! 夢の樹は藤城清治の影絵みたいで美しいし、夢の瓶詰は透明なガラス瓶の中で色鮮やかな光が動いているのが綺麗だし、瓶詰めがいっぱいあるあの部屋とかすごくときめいた。あと、夢の調合も、それぞれの夢の中身っぽい動きをしていて素敵。
原作で好きだった女王陛下のシーンも、映像だとより楽しい感じになっていて。内装とかもすごく豪華だし、料理もおいしそう。クリームがのったいちごは、巨人にとっての子供だよみたいなあれなんだろうなぁ、そういう伏線回収いいなぁ。執事は萌えキャラ。犬もかわいい。冒頭の猫もめっちゃかわいかったですね。なんでいたのかよくわからないけど。
そこだけではなくて、BFGの家も、借り暮らしっぽくてすごく好きでした。船のベッドが素敵。交通標識のトレーとかも。
走っているBFGが、トム・ボンバディルっぽくてすごく良かった。人が通ると隠れたりするところもおもしろい。
あとさぁ、これ言うのあれかなぁとも思うんだけど、おばけきゅうりから出てくるソフィーすごいえろかったですね。あの、足の辺り。
難点を言うなら、吹き替えで見たのだけれどもソフィー役の声がなんかわざとらしくて、鼻についた。古い洋画の主人公の女の子っぽいというか、舞台演劇っぽいというか。だから余計にこまっしゃくれたガキに見えて、ところどころうざかった。
BFGのいいまつがいは音で聞いた方が楽しいとは思うけど、その辺が字幕でどうなってるのかとも気にはなる。
あと、映画版の訳がところどころなんともダサいね……? 吹き替えだからとかそういう問題?
「泡立ちソーダ」が「ぷっぷくぷー(?)」だったり。それは泡立ちソーダでよくない?巨人たちの名前も変わってたし。もしかすると小説でも新しい訳がこうなっているのかもしれないのだけれども。
BFGの言葉遣いが変わってたのは活字で見ておもしろいのと耳で聞いておもしろくかつ元の単語が理解できるのとは違うだろうからいいんだけど。
原作に比べると。ブラックユーモアがなくなって、なんとなくいい話っぽくなってたのが微妙。まぁディズニーだし?何らかの規制とかあるんだろうなとは思うんだけど。そりゃ、ターキーとかほかの国の人間の味の話題はやっぱりポリティカルコレクト的に問題ありそうですし。巨人の食事も、そんなにあからさまではなかったから。まずいんだろうなぁ。
ジャックのくだりもなかったし、あと「勝手に餌を与えないでください」もすごくブラックユーモアきいてて好きなんだけどなかったですね。
っていうか、ラスト全然違ったね。
まぁ、映画のラストのほうがある意味現実的なんだろうと思う。世界を救ったとはいえ、所詮異種族は一緒には暮らしていけないんだよ……。原作ラストのほうが夢があって好きです。映画でも、物語書いてること示されてたのはいいなって。
でも巨人あの島から出てこれるのでは?周囲全部水だから無理なのかな。ってか、水苦手って話はどこからきたんだろう。
BFGの映画を見てきました。
が、それに先立って原作を読みました。予習的な感じで。
両方の感想と比較してみてのあれこれと。
ネタバレそんなに気にするものではないけど、ネタバレもあるかもです。
まずは原作、『オ・ヤサシ巨人BFG』
1985年初版の中村妙子訳で読んだので、もしかすると新しい方とは若干訳とかが違うかもしれない。
良いファンタジーだった。
ストーリー的にはあまり起伏がないというかありがちな感じ。女の子が巨人(優しい)に攫われて、仲良くなって、悪い人食い巨人たちをやっつける、みたいな。なんとなく『魔女がいっぱい』を思い出しました。そして『魔女がいっぱい』の方が好きではある。
でも、巨人の暮らしの描写だったり、夢のコレクションの列挙だったり、そういう背景的な部分がすごくワクワクする感じで好きです。
特に、女王と一緒に食事するシーンがすごく好き。巨人用のテーブルをセットするところが、逆「床下の小人」っぽいというか。鋤と鍬をフォークとスプーンにしたり、柱時計と卓球台で高いテーブルを作ったり。そういう風に、その場にあるもので間に合わせる想像力みたいなのがすごく楽しいのです。あとなんとなくだけれど、そういう状況でも一応ちゃんとテーブルをセットするあたりがイギリス人っぽい(偏見) 脚立を使ってサーブする執事氏萌えでした。
あと、ダールの児童書では定番の、言葉遊びも楽しかったです。
BFGの言い間違いは言語ではどうなってたんだろうって興味ある。「ニンゲンマメ」はbeingとbeansをかけてるのかなってなんとなく思ったんですけど。
トルコ人は七面鳥の味がするとかのくだりも好き。
あと、巨人たちが唯一畏れているのが「ジャック」っていうのも好きです。……「マメノキ」という謎の武器を持っているらしいけど詳しいことは伝わってないという設定も含めて。
さて、映画の話。
だいたいの感想は同じ感じで、ストーリーは原作よりはダイナミズムがあるとはいえ、前半は特に話が薄かったかなーって。
でも、映像がすごく綺麗でよかった。特に、夢まわりのあれこれが!スッバラシイ! 夢の樹は藤城清治の影絵みたいで美しいし、夢の瓶詰は透明なガラス瓶の中で色鮮やかな光が動いているのが綺麗だし、瓶詰めがいっぱいあるあの部屋とかすごくときめいた。あと、夢の調合も、それぞれの夢の中身っぽい動きをしていて素敵。
原作で好きだった女王陛下のシーンも、映像だとより楽しい感じになっていて。内装とかもすごく豪華だし、料理もおいしそう。クリームがのったいちごは、巨人にとっての子供だよみたいなあれなんだろうなぁ、そういう伏線回収いいなぁ。執事は萌えキャラ。犬もかわいい。冒頭の猫もめっちゃかわいかったですね。なんでいたのかよくわからないけど。
そこだけではなくて、BFGの家も、借り暮らしっぽくてすごく好きでした。船のベッドが素敵。交通標識のトレーとかも。
走っているBFGが、トム・ボンバディルっぽくてすごく良かった。人が通ると隠れたりするところもおもしろい。
あとさぁ、これ言うのあれかなぁとも思うんだけど、おばけきゅうりから出てくるソフィーすごいえろかったですね。あの、足の辺り。
難点を言うなら、吹き替えで見たのだけれどもソフィー役の声がなんかわざとらしくて、鼻についた。古い洋画の主人公の女の子っぽいというか、舞台演劇っぽいというか。だから余計にこまっしゃくれたガキに見えて、ところどころうざかった。
BFGのいいまつがいは音で聞いた方が楽しいとは思うけど、その辺が字幕でどうなってるのかとも気にはなる。
あと、映画版の訳がところどころなんともダサいね……? 吹き替えだからとかそういう問題?
「泡立ちソーダ」が「ぷっぷくぷー(?)」だったり。それは泡立ちソーダでよくない?巨人たちの名前も変わってたし。もしかすると小説でも新しい訳がこうなっているのかもしれないのだけれども。
BFGの言葉遣いが変わってたのは活字で見ておもしろいのと耳で聞いておもしろくかつ元の単語が理解できるのとは違うだろうからいいんだけど。
原作に比べると。ブラックユーモアがなくなって、なんとなくいい話っぽくなってたのが微妙。まぁディズニーだし?何らかの規制とかあるんだろうなとは思うんだけど。そりゃ、ターキーとかほかの国の人間の味の話題はやっぱりポリティカルコレクト的に問題ありそうですし。巨人の食事も、そんなにあからさまではなかったから。まずいんだろうなぁ。
ジャックのくだりもなかったし、あと「勝手に餌を与えないでください」もすごくブラックユーモアきいてて好きなんだけどなかったですね。
っていうか、ラスト全然違ったね。
まぁ、映画のラストのほうがある意味現実的なんだろうと思う。世界を救ったとはいえ、所詮異種族は一緒には暮らしていけないんだよ……。原作ラストのほうが夢があって好きです。映画でも、物語書いてること示されてたのはいいなって。
でも巨人あの島から出てこれるのでは?周囲全部水だから無理なのかな。ってか、水苦手って話はどこからきたんだろう。
『一の悲劇』
ドラマ化されたというのを聞いて、読んでみました。ドラマはまだ見てません。読んでからというつもりだったので。録画はしてるはず。
あらすじ。
主人公は、自分の息子が誘拐されたという連絡を受ける。しかし、犯人は誤って隣家の息子を誘拐していたのだ。主人公は身代金授受に失敗し、誘拐された少年は殺されてしまった。
感想を一言でいうと、視点人物が嫌いです。
全てこいつの蒔いた種(いろんな意味で)なのに、悲劇に酔って、まわりが見えてなくて、捜査を引っ掻き回して状況をより悪くしていって……という感じなので、読んでてすごくイラッとしました。
その自己憐憫的な一人称が地の文だから、尚更。
そもそもが蒔いた種なのは仕方ないとして、その後の行動次第でここまでの結果にはならなかったと思うし、警察に任せておけばよかったんじゃってのもすごく思ってイライラした。
自業自得ならまだいいけど、主人公の行いにより報いを受けているのは他の人なので、真犯人よりもむしろ主人公こそが犯人なんじゃないみたいな気になる。少なくとも、事件の原因ではある。
何よりももやもやするのは、たとえ彼に「全てお前のせいだ」と言おうとそれはむしろより悲劇にひたれるから逆効果っぽいところが……。
トリックというか、メインのアリバイ、身代金要求の目的辺りはすごくおもしろかったんですけど、それが捜査によって導き出されたものではなく、最後に出てきた探偵から明かされるだけのものだったのが、若干の不満。
わりと捜査シーンがおもしろい作家さんだと思ってたので、一番おもしろい部分と捜査が結びついてないのが残念。
犯人自体はまぁ、驚きは特にないぐらいですし。(あっちこっちに視線を誘導されるので、実際に明かされるまで気づかなかったといえばそうだけど、この人が犯人であってもおかしくないよね、というのはずっとあった。私の中では解決のふたつ前くらいのダミー犯人と二択だった)
あと、法月綸太郎(作中人物の方)わりと陰薄かったですね。
被害者の父親の一人称だから仕方ないかもだけど。
あらすじ。
主人公は、自分の息子が誘拐されたという連絡を受ける。しかし、犯人は誤って隣家の息子を誘拐していたのだ。主人公は身代金授受に失敗し、誘拐された少年は殺されてしまった。
感想を一言でいうと、視点人物が嫌いです。
全てこいつの蒔いた種(いろんな意味で)なのに、悲劇に酔って、まわりが見えてなくて、捜査を引っ掻き回して状況をより悪くしていって……という感じなので、読んでてすごくイラッとしました。
その自己憐憫的な一人称が地の文だから、尚更。
そもそもが蒔いた種なのは仕方ないとして、その後の行動次第でここまでの結果にはならなかったと思うし、警察に任せておけばよかったんじゃってのもすごく思ってイライラした。
自業自得ならまだいいけど、主人公の行いにより報いを受けているのは他の人なので、真犯人よりもむしろ主人公こそが犯人なんじゃないみたいな気になる。少なくとも、事件の原因ではある。
何よりももやもやするのは、たとえ彼に「全てお前のせいだ」と言おうとそれはむしろより悲劇にひたれるから逆効果っぽいところが……。
トリックというか、メインのアリバイ、身代金要求の目的辺りはすごくおもしろかったんですけど、それが捜査によって導き出されたものではなく、最後に出てきた探偵から明かされるだけのものだったのが、若干の不満。
わりと捜査シーンがおもしろい作家さんだと思ってたので、一番おもしろい部分と捜査が結びついてないのが残念。
犯人自体はまぁ、驚きは特にないぐらいですし。(あっちこっちに視線を誘導されるので、実際に明かされるまで気づかなかったといえばそうだけど、この人が犯人であってもおかしくないよね、というのはずっとあった。私の中では解決のふたつ前くらいのダミー犯人と二択だった)
あと、法月綸太郎(作中人物の方)わりと陰薄かったですね。
被害者の父親の一人称だから仕方ないかもだけど。
『江戸の妖怪革命』
香川雅信著。角川ソフィア文庫版を読みました。
すごくおもしろかった。というか、興味深かった?博論とかを下敷きにしてるらしいので若干学術よりの内容で、そもそもアルケオロジーって何ってところから難しかったので読むのは時間かかったのですが。
この著者の方のいる兵庫県立博物館で今年妖怪造形展やってたのよね。荒井良の妖怪張り子とかも出てたらしくてちょっと行きたかったけど、兵庫は遠くて。
要旨としては、
江戸時代(18世紀後半)において、妖怪は中世以前の民俗社会のリアリティから切り離され、「表象」化=キャラクター化され、人間のコントロールしうるものとなった。妖怪は「ない」けれども、それじゃつまらないから「ある」ことにして楽しもう、という態度が近世における妖怪観だった。この時代に転換点があった理由として、貨幣経済の発達により神霊が絶対的贈与者でなくなったことがあげられる。
近代になると、それ以前に絶対的存在とされていた「人間」そのものが不安定な内面(「神経」「催眠術」「心霊」による)をもつものと認識され、妖怪は人間自身にはコントロールできない「内面」の働きによって「見てしまう」ものとなり、再びリアリティを得た。
まず、なんとなくのイメージとして近世以前=妖怪にリアリティがあった/近代以降=合理的思考によって妖怪が否定されたという認識があったので、それを覆されたのがおもしろかった。
既に江戸時代にも当時なりの合理的解釈で妖怪の「種明かし」が行われていて、円了の「妖怪学」はその延長にすぎない、というのが。
いわれてみたら石燕みたいなパロディ的キャラクター的妖怪はリアリティとは無縁の産物ではあるんだけれども。
そうはいっても都市ではなく地方ではまだリアリティが共有されてたのでは、ということも思わなくもないけど。でもそれも理想主義なのかなー。それこそ円了が妖怪を否定しようとしたからには、明治時代初期には「迷信」を信じる人たちもいたのは確かなんだけれども。
18世紀後半当時の地方における書籍/情報流通はどういうレベルだったのかとかも気になる。
でも、江戸時代の書物で妖怪が否定されていても、狐狸が化かすことについてはまだリアリティが温存されていたり、現代においては妖怪は否定していても幽霊に対しては恐怖するというのはなんとなくおもしろい。
対象が「自然」であれ「人間」であれ、わからないものに対して畏れを抱くのは時代が変わっても変わらないんだなぁと思うと、人間に対して愛おしさみたいなものを感じる。
明治時代の「神経」によって幽霊を出現させる物語、芳年や円朝の最期も含めて時代の変化に感傷的になってしまう。
それはそれとして、読んでいてもいまいち『真景累ヶ淵』や『木間星箱根鹿笛』と『東海道四谷怪談』の幽霊観の違いがよく分からなかった。おどろおどろしい演出の有無や、たぶん演出や物語の上で、その幽霊を認識しうるのは誰かということが大きな違いなんだろうけど。実際に見てみたいですね。
妖怪は「ない」けれども、それじゃつまらないから「ある」ことにして楽しもう、という妖怪観だったり、第二部で紹介されている妖怪手品の数々に、巷説を思い出しました。
まぁでも巷説のは手品ではなく、むしろ「語り(=『騙り』によって保障され」る「曖昧かつ中間的な領域」に属するものとして物語内では受け取られているものだと思いますが。
そういう連想が働いたのも、この辺りの説明で呑馬術で評判を読んだ塩売長次郎にちらっと言及されていたのもあるのかもしれない。
まぁ参考文献に京極夏彦の名前あるしね。巷説ではないけど。
参考文献といえば、そこで紹介されてた本もいろいろと興味ひかれるもの多いので追々読んでいきたいんだけど、ときどき不思議なものがあった。『ニューロマンサー』とか(未読)。泡坂妻夫が江戸奇術の解説してる本は、そんなのあるんだって思いました。
妖怪図鑑が、その時代に流行った見立て絵本や番付、開帳、名所図会なんかと同じく博物学的思考/嗜好の所産というのも興味深い点でした。
江戸時代の博物学についてももう少し知りたい。
あとその頃行われた「宝合」という遊びが楽しそうなのでやってみたい。牽強付会の物産会。
パロディ的な妖怪図鑑、その系譜をひいているのが妖怪ウォッチなんだろうなぁとさんざん言い尽くされていそうなことなども考えたり。この本が書かれたのは2005年なので、ポケモンは現代の妖怪的なものとして出てきていても妖怪ウォッチには言及されてないんですよね。
現代との対比でいうと、18世紀後半の「表象空間」――さまざまなメディアによって形成された引用と参照のネットワーク――で独自の生成・発展を遂げていき、「化物らしさ」(表象としてのリアリティ)が確立されていくことが、二次創作とかでキャラクターの設定が付加されていって原作で描かれている以上のそのキャラクターらしさが生まれていく感じと対応するかなぁ、と。
すごくおもしろかった。というか、興味深かった?博論とかを下敷きにしてるらしいので若干学術よりの内容で、そもそもアルケオロジーって何ってところから難しかったので読むのは時間かかったのですが。
この著者の方のいる兵庫県立博物館で今年妖怪造形展やってたのよね。荒井良の妖怪張り子とかも出てたらしくてちょっと行きたかったけど、兵庫は遠くて。
要旨としては、
江戸時代(18世紀後半)において、妖怪は中世以前の民俗社会のリアリティから切り離され、「表象」化=キャラクター化され、人間のコントロールしうるものとなった。妖怪は「ない」けれども、それじゃつまらないから「ある」ことにして楽しもう、という態度が近世における妖怪観だった。この時代に転換点があった理由として、貨幣経済の発達により神霊が絶対的贈与者でなくなったことがあげられる。
近代になると、それ以前に絶対的存在とされていた「人間」そのものが不安定な内面(「神経」「催眠術」「心霊」による)をもつものと認識され、妖怪は人間自身にはコントロールできない「内面」の働きによって「見てしまう」ものとなり、再びリアリティを得た。
まず、なんとなくのイメージとして近世以前=妖怪にリアリティがあった/近代以降=合理的思考によって妖怪が否定されたという認識があったので、それを覆されたのがおもしろかった。
既に江戸時代にも当時なりの合理的解釈で妖怪の「種明かし」が行われていて、円了の「妖怪学」はその延長にすぎない、というのが。
いわれてみたら石燕みたいなパロディ的キャラクター的妖怪はリアリティとは無縁の産物ではあるんだけれども。
そうはいっても都市ではなく地方ではまだリアリティが共有されてたのでは、ということも思わなくもないけど。でもそれも理想主義なのかなー。それこそ円了が妖怪を否定しようとしたからには、明治時代初期には「迷信」を信じる人たちもいたのは確かなんだけれども。
18世紀後半当時の地方における書籍/情報流通はどういうレベルだったのかとかも気になる。
でも、江戸時代の書物で妖怪が否定されていても、狐狸が化かすことについてはまだリアリティが温存されていたり、現代においては妖怪は否定していても幽霊に対しては恐怖するというのはなんとなくおもしろい。
対象が「自然」であれ「人間」であれ、わからないものに対して畏れを抱くのは時代が変わっても変わらないんだなぁと思うと、人間に対して愛おしさみたいなものを感じる。
明治時代の「神経」によって幽霊を出現させる物語、芳年や円朝の最期も含めて時代の変化に感傷的になってしまう。
それはそれとして、読んでいてもいまいち『真景累ヶ淵』や『木間星箱根鹿笛』と『東海道四谷怪談』の幽霊観の違いがよく分からなかった。おどろおどろしい演出の有無や、たぶん演出や物語の上で、その幽霊を認識しうるのは誰かということが大きな違いなんだろうけど。実際に見てみたいですね。
妖怪は「ない」けれども、それじゃつまらないから「ある」ことにして楽しもう、という妖怪観だったり、第二部で紹介されている妖怪手品の数々に、巷説を思い出しました。
まぁでも巷説のは手品ではなく、むしろ「語り(=『騙り』によって保障され」る「曖昧かつ中間的な領域」に属するものとして物語内では受け取られているものだと思いますが。
そういう連想が働いたのも、この辺りの説明で呑馬術で評判を読んだ塩売長次郎にちらっと言及されていたのもあるのかもしれない。
まぁ参考文献に京極夏彦の名前あるしね。巷説ではないけど。
参考文献といえば、そこで紹介されてた本もいろいろと興味ひかれるもの多いので追々読んでいきたいんだけど、ときどき不思議なものがあった。『ニューロマンサー』とか(未読)。泡坂妻夫が江戸奇術の解説してる本は、そんなのあるんだって思いました。
妖怪図鑑が、その時代に流行った見立て絵本や番付、開帳、名所図会なんかと同じく博物学的思考/嗜好の所産というのも興味深い点でした。
江戸時代の博物学についてももう少し知りたい。
あとその頃行われた「宝合」という遊びが楽しそうなのでやってみたい。牽強付会の物産会。
パロディ的な妖怪図鑑、その系譜をひいているのが妖怪ウォッチなんだろうなぁとさんざん言い尽くされていそうなことなども考えたり。この本が書かれたのは2005年なので、ポケモンは現代の妖怪的なものとして出てきていても妖怪ウォッチには言及されてないんですよね。
現代との対比でいうと、18世紀後半の「表象空間」――さまざまなメディアによって形成された引用と参照のネットワーク――で独自の生成・発展を遂げていき、「化物らしさ」(表象としてのリアリティ)が確立されていくことが、二次創作とかでキャラクターの設定が付加されていって原作で描かれている以上のそのキャラクターらしさが生まれていく感じと対応するかなぁ、と。
2016/09/19 (Mon) 読書感想(小説以外)
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『ランボー怒りの改新』
表題作とナラビアン・ナイトはNRで読んでいたんですが、この単行本が完成形だったんだ……という気がする。
なんというか、それぞれの短編だけではなくて、帯とか、解説とか、袖の著者紹介とか、そういうものを含めてひとつの「前野ひろみち」という物語を作り上げている感じ。
そして、私はそういう感じがとても好きです。なんていうんでしょうね、現実と虚構があいまいになるというか、物語を現実であるかのように思わせてくれるというか、そういうところが。
今まで読んだほかの物語でいうと、辻村深月の『V.T.R』の文庫解説を赤羽環が書いていたりとか。ダレン・シャンとか?そういうやつ。
逆に物語が物語であることを自覚しているある種のメタがあまり好きではないのですが。
まぁ、私の好みの話は置いておいて、『ランボー怒りの改新』に話を戻します。
「佐伯さんと男子たち1993」アホな中学生たちのアホな青春。佐伯さん素敵。
「ランボー怒りの改新」ベトナム帰還兵ランボーが乙巳の変に介入する話。何それって思うし、冷静になると、なんで律令制以前なのに反共産主義とかいってるんだこいつらってなるんですけど、読んでると何故か納得させられてしまう不思議。中国は唐らしいのにベトナムは南北に分裂しているらしいのが謎。境目がどこにあるのか気になってしまいます。古代史好きとしても、わりと知ってる人名出てきて楽しい。鎌足と中大兄の出会いがフットボール大会になってる辺り爆笑でした。
「ナラビアン・ナイト」これ好きです。奈良風千夜一夜物語なので、もしかしたら好きなのは千夜一夜なのかもしれないという気もしなくもないんですが。アラビアンな世界が魔術と鹿の奈良に置き換わるだけでこんなにもおもしろくなるのか、という感じ。『猟師と鬼との物語』も気になります。
個々の作品もそれぞれ、何これって感じの設定でなのに読まされてしまうおもしろい短編たちなんですが、「満月と近鉄」がすごく良かったです。「ナラビアン・ナイト」作中話の最後の話みたいに今までの3編を貫き、しめくくる物語であるというのもあるんですけど、ただ青春小説として良い。読後感がすごく好き。
ところで「満月と近鉄」に出てくる「長脛君」という人物、奈良的なつながりが何かあるのかもしれないのでたぶん邪推だと思うんですけど、長脛彦の別名に「登美毘古」があるからそういうあれなのかなと。そう思わせようとしているのかな、って。
じゃあ「前野ひろみち」は役柄的には饒速日なのだろうか。それとも神武?
もっと元ネタ知ってたほうがおもしろいのかなとも思う。ランボーとか、千夜一夜とか。
あと、奈良の土地勘はあったほうが絶対良かった。もっと奈良行っておけばよかった。観光で行ったことある場所は何か所もあれど、想像できるほどわかるのは近鉄奈良駅から春日大社までの辺りだけなので。西大寺はおいしいケーキ屋さんがあったので、あの辺だなという記憶はあるけど、生駒とかは全然未知の領域です。
なんにせよ、小説が面白いというのとはまたちょっと違う、いい読書体験でした。
数年前に先輩に「ランボー怒りの改新」勧めてもらってなかったら今回も手を出さなかっただろうなと思うので、本との出会いも縁なんだなという気がする。
そのとき酔ってたので実は勧めていただいたことを忘れていて、翌日NRがあってなんだろうと思ったのですが。
なんというか、それぞれの短編だけではなくて、帯とか、解説とか、袖の著者紹介とか、そういうものを含めてひとつの「前野ひろみち」という物語を作り上げている感じ。
そして、私はそういう感じがとても好きです。なんていうんでしょうね、現実と虚構があいまいになるというか、物語を現実であるかのように思わせてくれるというか、そういうところが。
今まで読んだほかの物語でいうと、辻村深月の『V.T.R』の文庫解説を赤羽環が書いていたりとか。ダレン・シャンとか?そういうやつ。
逆に物語が物語であることを自覚しているある種のメタがあまり好きではないのですが。
まぁ、私の好みの話は置いておいて、『ランボー怒りの改新』に話を戻します。
「佐伯さんと男子たち1993」アホな中学生たちのアホな青春。佐伯さん素敵。
「ランボー怒りの改新」ベトナム帰還兵ランボーが乙巳の変に介入する話。何それって思うし、冷静になると、なんで律令制以前なのに反共産主義とかいってるんだこいつらってなるんですけど、読んでると何故か納得させられてしまう不思議。中国は唐らしいのにベトナムは南北に分裂しているらしいのが謎。境目がどこにあるのか気になってしまいます。古代史好きとしても、わりと知ってる人名出てきて楽しい。鎌足と中大兄の出会いがフットボール大会になってる辺り爆笑でした。
「ナラビアン・ナイト」これ好きです。奈良風千夜一夜物語なので、もしかしたら好きなのは千夜一夜なのかもしれないという気もしなくもないんですが。アラビアンな世界が魔術と鹿の奈良に置き換わるだけでこんなにもおもしろくなるのか、という感じ。『猟師と鬼との物語』も気になります。
個々の作品もそれぞれ、何これって感じの設定でなのに読まされてしまうおもしろい短編たちなんですが、「満月と近鉄」がすごく良かったです。「ナラビアン・ナイト」作中話の最後の話みたいに今までの3編を貫き、しめくくる物語であるというのもあるんですけど、ただ青春小説として良い。読後感がすごく好き。
ところで「満月と近鉄」に出てくる「長脛君」という人物、奈良的なつながりが何かあるのかもしれないのでたぶん邪推だと思うんですけど、長脛彦の別名に「登美毘古」があるからそういうあれなのかなと。そう思わせようとしているのかな、って。
じゃあ「前野ひろみち」は役柄的には饒速日なのだろうか。それとも神武?
もっと元ネタ知ってたほうがおもしろいのかなとも思う。ランボーとか、千夜一夜とか。
あと、奈良の土地勘はあったほうが絶対良かった。もっと奈良行っておけばよかった。観光で行ったことある場所は何か所もあれど、想像できるほどわかるのは近鉄奈良駅から春日大社までの辺りだけなので。西大寺はおいしいケーキ屋さんがあったので、あの辺だなという記憶はあるけど、生駒とかは全然未知の領域です。
なんにせよ、小説が面白いというのとはまたちょっと違う、いい読書体験でした。
数年前に先輩に「ランボー怒りの改新」勧めてもらってなかったら今回も手を出さなかっただろうなと思うので、本との出会いも縁なんだなという気がする。
そのとき酔ってたので実は勧めていただいたことを忘れていて、翌日NRがあってなんだろうと思ったのですが。