四月から通う高校の説明会があった日だった。
湊がこの学校に来るのは入試以来二回目だったが、何処に何があるのか全く把握できていない。どちらに行けば説明会の会場があるのか分からなかった。
同じ中学からこの学校に来るのは湊だけだった。
この場に他の知り合いは一人もいない。
それ以前に、周りを通る人影が見えなかった。
合格発表のときに貰った資料を取り出して、地図をじっくり見る。
説明会の会場、多目的教室は地図上にすぐ見つかった。
けれど、自分が今いる場所がどこにあたるのか分からない。
目印になりそうな表示すら見つけることができなかった。
自分はけっして方向音痴なわけではないと思っていたのに、その自覚すら覆ってしまいそうだ。
溜息を吐いて、腕時計で時間を確認した。
あと十五分。
それが今の自分にとって長いのか短いのか、よく分からなかった。
ふと、視界の隅に動くものを見つけた。
廊下の奥、突き当たりを右に。
「生徒相談室」の表示が出た部屋に行き着いた。
中途半端に閉まったドアの隙間から部屋の中をうかがってみる。
そこでは、眼鏡をかけたスーツ姿の男の人が誰かと携帯で話していた。
湊から見えた横顔は若く、まだ学生といっても通用しそうだったが、おそらく教師なのだろう。
彼が湊に気づいた様子はない。
何を話しているのか聞き取れなかったが、彼の横顔に浮かぶ表情は嬉しさと悲しさがない交ぜになったようだった。
その表情に眼を惹きつけられた。
何が彼をそんな表情にさせるのだろうか。
知りたい、と思った。
彼が通話を終えるのを見計らって声をかけた。
「すいません…、多目的教室へはどう行けばいいですか?」
彼は突然声がかけられたことに驚いた顔でこちらを向く。
湊を見ると優しく其処までの行き方を教えてくれた。
「ありがとうございます」
「新入生?」
「はい」
頷いた湊を彼は凝視した。
「……新入生が皆、君みたいだったらいいのに」
「え?」
小さな声での呟きが聞き取れなくて聞き返したけれど、応えはなく。
「説明会、頑張ってね」
と言って湊にチョコの個包みをくれた。
あの先生が道を教えてくれたおかげで湊は時間に遅れることなく会場に到着した。
すでに多目的教室は同年代の生徒たちでいっぱいだ。
湊は誰とも目を合わせないように所定の位置に座っていた。
隣に座っていた生徒が友人に「すごく綺麗なひとがいる」と囁くのが聞こえた。
なんとなく気になってそちらを見てみると、たしかにとても顔立ちの整った男子がいた。薔薇でも背負っていそうな好男子だ。いや、彼には薔薇よりも菖蒲のほうが似合いそうだ。五月に凛と咲く紫の花。
――気のせいだろうか。
彼の鳶色の瞳が湊を捉えていたと感じたのは。
説明会が終わり、帰路についた。
一緒に喋るような友人もいない湊は一人で桜の蕾が彩る並木道を歩く。
入学式のころには満開だろうか。
歩きながら口に入れたチョコレートは、苦い洋酒の味がした。
この苦さが高校生活を暗示している――というのは考えすぎだろう。
どうかこれからの日々を平穏に過ごせるように、願った。
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